尾張茶人名鑑:河村蝸牛

過去の勉強部屋の《書き直し》です。
ところどころ内容は共通していますが、新たに書き直しています。
河村曲全斎の孫
河村蝸牛(かぎゅう)は江戸中期~後期の尾張の茶人。通称は「佐市」と称し、河村曲全の孫にあたります。
上記以外にも、色々と記事を上げているので、詳細はそれぞれの過去記事をご覧いただければと思います。
蝸牛は河村宗智の長男として享保18年(1733)に生まれ(※生年は著者推定)、祖父・河村曲全(1761年に歿)の晩年の様子を直に見聞きしながら育ったと考えられます。
門弟を多数抱えた祖父・曲全の側にいた蝸牛は、幼少期から暮らしの中で大いに茶の湯に親しむ環境にあったと思われ、青年のころ早々に茶の湯に傾倒し、家督を弟の秋輔に譲って、早くから隠棲して茶の湯中心の生活を始めていたと思われます。(青年~壮年期の来歴は不詳ながら、弟・秋輔が家督を継いだということから、家業には長く関わっていないと推定している)
茶人としては「玉椿斎(玉春斎)」と号し、橘町の別荘に隠居。祖父・曲全の門下であった尾張藩士の千村伯就とは友人関係だったようで、蝸牛が「折り畳み式の移動可能な茶室」を考案した際は「蝸牛庵記」という蝸牛の考案した面白い茶室を称える詩を書いています。この茶室が移動時に小さくなる様を「かたつむり」になぞらえて「蝸牛庵」と呼び、自身も「蝸牛」を名乗るようになります。
茶道具プロデューサーとしての嚆矢
他の尾張の茶人と比較しても、「好みの道具」が比較的多く残されているのが蝸牛の特徴でもあります。
曲全や太郎庵など商家の旦那衆が茶の湯に傾倒し、尾張の町方で茶の湯が大いに発展していった時代。その次世代に当たる蝸牛の時代には、恐らく相当な数の「茶道具の需要」が膨れ上がっていたと思われます。茶の稽古をして、点前を習得したら、次は自分で道具を使って本格的な茶事や茶会をやりたくなるものです。茶道具の需要が増えるのは、必然の流れ…。
かといって、「お茶が点てれば何でもいい」というワケにもいきません。
利休伝来の道具があれば、そりゃ抜群に格好もつくでしょうが……そんなものは、まず手に入りません。そういう「古美術品・寂び道具」でお茶ができるのは、いつの時代だって極わずかな、限られた人たちだけ。でも、そうじゃない人たちだって、お茶をしたい…。
「じゃあ、自分たちで作っちゃおう!」というわけで、江戸の中期以降、茶人でありながら余技として「陶器を作る」という人が続々と尾張では出現します。もちろん尾張以外でもこういう「自作茶道具」という風潮は見られますが…やはりこれも「限られた人」にしか出来ない芸当。
他の地域に比べ、窯業が盛んな尾張(瀬戸・常滑)ならではの、この「自作茶器という発想に至る」のは、この地域の風土ともいえるでしょう。
で、自ら茶碗や水指、花入などを作りますが…とどのつまり、茶人も所詮は「陶芸・手芸の素人」なんです。精々、粘土をコネコネ、楽焼(中には瀬戸でもやってますが…)でいろんな器を作るか、竹を切って花入や茶杓を削る程度です。これはこれで…手作りの味があって、面白いのですが…万人に受けるかというと、そうでもない。茶会の道具で1個ぐらい、手造の道具でもいいでしょうけど…使う道具が全部手造では、まぁ…面白くない。
結局、いつの時代も、どんな地域でも…茶人は古い新しいを問わず、「イイ道具」が欲しいのです。
金にモノを言わせて、いい道具を揃えられる人は、勝手にそうします。でもそういう茶人ばかりじゃない。何とかして「いい道具」でお茶を楽しみたい…。「あなた、お茶の事をよく分かってる人だから、なんとかできない?」と相談するでしょう。親しい間柄なら、「よし、何とかしてあげよう」となるでしょう。こうして、茶の湯の事をよく分かって、道具の事も良く分かった茶人が、陶工を指導しながら茶道具を作らせるようになるのです。「道具の良さの勘どころ」をよくよく分かった茶人が、道具をプロデュースするんです。
利休さんが『元祖・茶道具プロデューサー』であったように、尾張の茶人たちの中からも、プロデューサーが生まれ出てくるのです。
河村蝸牛は、尾張における「茶道具のプロデュース」を行った草分け的存在の一人だと考えています。祖父・河村曲全は名物茶器を持っていた豪商であり、その家に生まれた蝸牛であれば、恐らく幼いころから家にある道具を見て、触ってきた経験がある。どんな道具が「いい道具」か、体で覚えているタイプの茶人だったことでしょう。
地元の常滑焼や豊楽焼で、「蝸牛好み」の器を焼かせて、それが比較的多く残されているのは、それだけ「世の需要を満たしていた」という裏返しだと思うのです。
蝸牛がどんな道具を作らせていたかは、過去の記事をご覧ください。

