尾張の茶の湯NEXT04:河村蝸牛(前編)
マイナーな茶人が続きますが、今回は「比較的」メジャーな存在です。
今回は河村蝸牛という茶人をご紹介します。
ついつい、掘り下げすぎてしまったので、前後編の2回に分けます。r(・∀・;)
河村というと…あの…?
さて名古屋で「河村」という名字を聞くと…
今の時代だと「物議をかもす例のアレ」を思い浮かべる人が多いでしょうが…
この勉強部屋を隅々までお読みの方なら、やはり「河村曲全」の名前が浮かびますよね?
今回の河村蝸牛とは、曲全の孫にあたる人物なのです。(※例のアレは曲全・蝸牛と何も関係ありません)
爺ちゃんに負けず劣らぬ数寄者
過去に河村曲全をご紹介した際は…まだまだ僕も勉強が足りておらず、そこまで調べが及ばなかったのですが…。
天満屋・河村家の方々は「尾張名所図会 前編二巻」に言及がありました。
はいー。またまた出ましたねー。尾張名所図会。
ココどんなけ情報の宝庫なのよ。すげーな(;´Д`)
玉峯山海福寺 巾下新道町の北より西側にあり…(中略)…鎮守 天満宮祠 當寺大旦那元祖天満屋九兵衛の寄付にして今も猶天満屋より修理を加ふるよし。此家、慶長の比より富豪の商家にしてその四代曲全斎という者気象不群なりしか千原叟の門に入りて茶の奥義を究め、終に真台子を皆伝し曲全流を肇創し當時同門の太郎菴と共に其名高く天下の名器をも多く蔵貯せり、又詩歌書画をよくし或は謝青菴と号す。宝暦11年高齢83歳にして其身を終ふ。
目次しか見てなかったんで…見落としていたわぁ…こんなところにいたんスね、曲全さん。
資料的にこっちは天保年間(1838-41)の刊行物なんで、尾州千家茶道之記と比べりゃ、あんまり古くないんですけどね。
ただ、今回大事なのはこの後の部分…。
其孫、玉春斎 又曲全流を道統し専ら風流を事として、橘町の別荘に隠居し、佐市と称す。ある時、小茶室の展畳に自在なるものを造り、持運びにも便りなれば、これを蝸牛菴と号(なづ)けて我意の適する所に随て點茶をなし又自らも蝸牛庵と称せり。千村伯就翁、此蝸牛庵の記あり。文長ければ略しぬ。佐市の没後、當寺に寄付して今も寺伝す。天満屋の子孫今八代目なるが猶連綿として家名相続せり。
ちなみに、この海福寺は戦争で焼けてしまいますが、移転もせず名古屋市内に現存します。どうやら河村家の代々の菩提寺だったようですねー。
「かたつむり」の茶室
さて、ここからが本題。この曲全には孫がおり、この人も茶人として有名だったのです。
曲全の息子・九兵衛宗智の子供で、佐市と名付けられました。曲全以来、代々茶を嗜む家に生まれ、佐市も茶人として成長、後に玉春斎(玉椿斎)と称します。
尾張名所図会には「展畳(のべだたみ)」とありますが、これは床材としての「畳(たたみ)」のことではなく(×)…「展る(のべる)」「畳む(たたむ)」が「自在」である、つまり、収縮できる茶室である、ということです。
しかも「持運びにも便りなれば」「我意の適する所に随て」ということは…この茶室、移動が可能!
とてもユニークな茶室を考案し、恐らくこの茶室が収縮する様子が、「カタツムリの様子」に似ていたことから、「蝸牛庵」と称したのだと思われます。
爺ちゃんに負けず劣らず、どっぷりお茶にハマっていた様子が窺えますね。
「蝸牛庵記」を読みたいなぁ…
また「千村伯就翁、此蝸牛庵の記あり。」とあり、伯就の著した「蝸牛庵記」という書物を根拠としております。尾張名所図会の出典目録にもしっかり記載されているのですが…今現在、「蝸牛庵記」の実存が不明なんです…。
中身を知りたいけれども、ここでは「文長ければ略しぬ」と…うーん残念。
しかし、とっておきの飛び道具を発見いたしました。
何故かウチの事務所に転がっていた、古い新聞のスクラップです。どこで誰(多分ウチの爺ちゃんはこんなことしない…親父か?叔父か?)が切り取ったのか分かりませんが、こんなところで役立つとは…よく残してあったなー、コレ。
千村諸成の蝸牛庵記によれば『わが友河村玉椿氏、一茶室を作り、以て遊息のところとなす。その室は方一歩有半、板をもって壁となし、竹をもって縁となす』といひ『みづからこれを名づけて蝸牛庵といひ、かのその殻を■ふてもって移すに取るなり。余に乞ふてこれが記をなさしむ。余曰く巧みなるかな吾子のなすところや。吾子もと府下の富族にして、別業を勝地に開くや、その廈を大にし、その堂を高くする、もしそれ一處にして慊らざる、これを二三にするも何の難きことこれあらんや。しかしてこれをなさず、この一室を作り、佳處を相してこれにつく。以って遊息す。その襟度の遼廓なる、在昔鴨 長明は 一小室をなし、軸を設け輪を施し、みづから挽いて喜ぶところの地に移す』といひ、玉椿斎の蝸牛庵をもって鴨長明の方丈の室に擬するものとしていってゐる。
「大名古屋繁盛記 蝸牛庵の茶室」 著・篤田健二
記事部分だけを切り取ったものが残されていたので、「いつ、どこの新聞記事なのか?」がサッパリ不明でしたが…著者の名前があったことで判明しました。
これは「新愛知」の「大名古屋繁昌記 蝸牛庵の茶室 著・篤田健二」の新聞記事からの引用です。
ちなみに、この新愛知新聞って、調べてみたら…なんと、戦前の新聞社(今の中日新聞の前身にあたる)なんですね…。
「大名古屋繁昌記」のアーカイブは名古屋市図書館にあるようです。
尾張郷土史家の皆さん、これは調べる価値あるかもしれませんよ~。(禁帯出なんで面倒ですが…)
茶人との交友関係もあった
こっちの新聞記事では内容にまで言及している!助かりますね~。
「蝸牛庵記」の実存が現在では不明なんですが、こうした時代の異なる2つの資料で、2通りの言及がされているので、「蝸牛庵記が過去に実存したことは確実だろう」と、緩ーく肯定的に考えられます(笑)
特に新聞記事は戦前のもの、ということで、ひょっとしたら蝸牛庵記自体、戦争で燃えてしまったの可能性も考えられます。ますます、あの記事が歴史的に貴重な史料に…。内容を断片的にでも知ることができるのは、記者さんのおかげです。
さて、この記事の中で言う「千村諸成」とは、過去にご紹介した千村伯就のことですね。「わが友」と、千村諸成(千村伯就)が言っていることから、「伯就と蝸牛は茶友だった」ことが分かります。個人的に意外な感じがしましたが…詳細に調べてみて納得。伯就の茶の師匠は曲全、その孫が蝸牛なんだから、知り合っていて当然ですよね。ただ蝸牛の半生について語られている資料は少なく、この二人の繋がりもあまり知られていない気がします。
この資料によると、鴨長明の移動式住居・方丈に例えていることから、蝸牛は家を持たずにこの茶室を移動させて生活していた節がありますね…(実際はどうだったかは分かりませんが)。
別の資料によると、蝸牛には弟・秋輔がおり、弟が家業である材木商・天満屋を継いでいるようですから、どうやら蝸牛は一茶人として生活をするため、蝸牛庵を考案して家を出たのかもしれません。
府下の富族にして、別業を勝地に開くや、その廈を大にし、その堂を高くする、もしそれ一處にして慊らざる、これを二三にするも何の難きことこれあらんや。しかしてこれをなさず、この一室を作り、佳處を相してこれにつく。以って遊息す。
「蝸牛庵記」 著・千村諸成
なんというか、現代の感覚だと理解しがたいですよねー。
自分がお金持ちじゃないから理解できないのかな…骨の髄まで茶人って感じ。まさしく奇人ですね。
分からなかったことが、続々と分かるようになる…
複数の資料を組み合わせ、謎を解き明かすのは無茶苦茶楽しいですね!
200年も昔の人なのに、こうして細々と現代にまで伝えられてきたことが繋がるスゴさ、分かりますかね?
今回は久々に、調べていてシビれました。
次回は「生年不詳」とされてきた、河村蝸牛の生まれた年を解き明かし、さらに広がる交友関係を探っていきます。