尾張国焼鉄道の旅11:久屋大通(佐治製陶)

意外なほどまだ駅数は消化していません。

「金山」→「上前津」→「矢場町」まだ名城線3駅しか回ってない…。

今回は4つ目の駅に到着。久屋大通です。

ここは街の区画の一部

現在の地図でみると、久屋大通公園は街を貫くグリーンベルトのようになっていますが…。

もともと、ここは名古屋城下の街割りの一部

太平洋戦争の空襲で灰塵に帰した名古屋の市街部を復興するにあたり、都市防火の観点から、旧区画を丸ごと使った緑地を整備したのが久屋大通の始まりです。(当時「滑走路でも作る気か」と反対運動があったとか笑)

ちなみにこの久屋大通、矢場町散歩でもご紹介した、「歩行者が青信号1回で渡るためにはダッシュが必要な(不便な)道路」こと、100m道路でもあります。

(↑↑4車線↑↑)(公園・広場)(↓↓4車線↓↓)

(若宮大通と違って)都市高速が走っていない分、景観はいいですよね~。若宮大通より幅が広いんですと…。

開けた青空にむかって、テレビ塔がニョキっと生えてる景色は、まさしく現代の名古屋を代表する景観ですな。

焼ける前の街は?

またしても古地図と地誌のお話です。すっかり過去を知るには、欠かせないツールとなりましたね。

愛知県図書館のホームページには「絵図の世界」という、所蔵する古地図を紹介したページがあり、名古屋城下の様子をうかがい知るには良い史料がいっぱい!

※商用利用はNGっぽいので、スクリーンショットは取らず、直接リンクを張らせてもらいます。

かつての久屋大通が「街の一部だった」ということを調べるために「久屋」で名前を探してみると…「久屋町」が引けます。

江戸時代~明治ごろまで、町名とは「通りの名前」を指していたので、この時代の絵図はいずれも道に「〇〇丁」と名前がついていますね。

縦に延びる道が「大津丁」「関鍛治丁」「久屋丁」「武平丁」と並んでいますね。

このうち「関鍛治丁」と「久屋丁」の縦の通りとその間に挟まれた区画を合体させて、現在の「久屋大通」ができるのです。

現在の地図に重ねた地図も見られるので、「絵図の世界」はなかなか楽しいですよ~。

宇佐見屋のあった場所

さてここからは、尾張国焼のお話。

ここにある名刺があります。

HOLLAND’S STYLE PORCELAIN
Sold & Manufactured by “USAMIYA” HARUZO SAJI.
名古屋市東区中市場町
宇佐見屋商店 佐治 春蔵
和蘭式陶器 製造販売

これは「佐治製陶」と呼ばれた、焼き物の製造販売をしていた会社の社長、佐治春蔵の名刺です。

おしゃれで凝ってますねぇ。時代は明治後期~大正ぐらいでしょうか。

このころはまだ「宇佐見屋」の屋号を用いています。もともとは尾張藩から認可を得た「陶器卸問屋・兎見屋」だった名残ですね。

維新後、瀬戸の窯屋は尾張藩の庇護を失い、そしてそのあおりを受けた陶器卸問屋もまた、困ったことになったのは想像に難くありません。

「売るための製品をどう調達するか…」

尾張藩の統制のもと、製品の安定供給があったのが、なくなっちゃった。これはもう死活問題ですよね。

そこで、明治以降の宇佐見屋では一時、不二見焼の製品販売を一手に引き受けていたようです。そして明治の終わりごろには自前で陶器生産を手掛ける計画を立て、生産工場を作り、そこでも焼き物を作って、販売するようになります。

この名刺は恐らくその過渡期のモノだと思われます。こののちに「佐治製陶」を立ち上げ、陶器の製造業を兼ねるようになるのです。

そしてこの名刺、住所が書いてあるではないですか。恐らく宇佐見屋の販売店があった場所に違いありません。

「名古屋市東区中市場町」

これは実は先ほど、愛知県図書館のホームページで探した久屋町のすぐ近くに記載があります。

久屋街は「縦(南北)の筋」でしたが、中市場町は「横(東西)の筋」なんです。現在の地図でいうと、この辺…。

当時は「新品(新物)」を扱う陶器販売店だったのですが…100年もたてば立派な古物ですね!

名刺にもあるように、「和蘭式陶器」が自前で作った主力製品。いわゆる「オランダ写」という奴です。

自前で陶器を作るようになった佐治製陶は、さらに販路を拡大し、不二見焼と同じく「タイル製造」へとシフトしていきます。(製品販売にかかわった関係上、不二見焼と佐治製陶は親密な関係にあったのかもしれません)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA