尾張国焼鉄道の旅07:上前津(酔雪焼)
まだまだ続く、「上前津駅」。
上前津は名城線と鶴舞線が交差する、文字通り「交差点」でもあるわけですが…。
前津小林村には、かつて「文化の交差点」ともいえる、一つの貸座敷がありました。
富士の雪に酔える楼閣
今回のシリーズは頻繁に「尾張名所図会」が出てきます。
ここは「酔雪楼」という貸座敷。古地図にもその名が残されており、その地図を基におおよその位置を推測すると…前津二丁目、現在の「栗田商会本店」のあるビルが建つ辺り…まさしく「上前津駅」のすぐ近くにありました。
ここは眺望の良い「不二見原」の北端に位置し、もともとは邸宅(誰のものだったかは不明)だったものを、文政年間(1818-1831)に料亭として改築。庭園と不二見原の景色を楽しむため、江戸中期から明治まで多くの文人墨客が訪れた、前津第一の座敷として知られた場所でした。
「尾張名所図会」でも眺望の良さが描かれいますね。一番奥に見えるのは「富士山」と書かれています。
小っちゃいなぁ…
酔雪焼
天保年間(1831-1845)に、魚之棚の旅亭・大惣がこの料亭を買収し、経営に乗り出します。この時の主人が「辻惣兵衛」という人物です。
過去に「夜寒焼」で勉強した、辻鉦次郎のお父さんですね。
辻惣兵衛はこの酔雪楼の庭の一角に焼き物の窯を築き、焼き物を作っていました。
尾張名所図会の中にも、その一端が描かれております。見つけられました?端っこの方に、こっそり描かれているのです。
どんな焼き物?
焼き物に詳しい方なら、この図(かはらけ釜)を見て「この形は登り窯じゃない、小規模の楽焼系だな?」とピーンと来るかもしれませんね。
実際、今に伝わる「酔雪焼」と呼ばれるものの中には、軟質施釉陶器(いわゆる楽焼)の作品が見受けられます。ただ、酔雪焼は数が少なく、一概に「楽焼を焼いていた」とも言い切れない部分もあります。
やはり料亭だったこともあり、主に料理を盛るための器(向付・皿・鉢)が作られていたと考えられています。この他にも茶碗、香合などの茶道具もわずかに確認されており、酔雪楼で行われた茶会などもあったことから、ここで用いる道具を自前で作っていたのでしょう。
印銘は瓢箪型の枠の中に「酔雪」の文字の入った印が知られ、この手の印は軟質施釉陶にほぼ限定されることから、恐らく絵図にもあるような小規模な窯で焼かれたものだと考えられます。この他にも小判型の「酔雪」印もあります。
時代は江戸後期でまだまだ本格的な「産業」となる以前の焼き物であり、作られた数自体はそこまで多くなかったでしょうし、そもそも流通にも乗っていないでしょうから、現在に残されている酔雪焼は数は少ないです。
酔雪焼は酔雪楼が明治時代になって廃業する共に、作られなくなりました。(子息の鉦次郎は東古渡で「夜寒焼」を始めています)