海を渡る瀬戸染付01:明治のうねり
短期集中講座、「海を渡る瀬戸染付」の始まりでーす。
どもどもご無沙汰しております。
脇に逸れ、道を見失い、彷徨っておりました…(‘A`)
知らない道を歩く
いきなりぶっちゃけた話になりますが…
「尾張の郷土美術」を専門に扱うお店のくせに、僕は「瀬戸染付とは何ぞや」ということをよく分かっていなかったのです…。
僕の修行先ではまず触れない分野ですし、ちょっと毛色が違う、というのですかねぇ…。
これまでの勉強部屋でやってきた茶人の話とか、江戸期のやきものの話とかは、修行から帰ってきて何となーくスムーズに入っていけた感じがするのですが…。瀬戸染付だけは何となく「ナンジャコレ?」感がぬぐえませんでした。
しかし、いつまでも「知らん、分からん」ではいけません…勉強せねば。
というわけで、瀬戸染付の作品をいろいろ見ながら、思案することにしました。父親がその道のプロですので、見て勉強する材料には事欠きません。
やたらと似ている食器たち
勉強の仕方には、「正攻法はない」と、個人的には思っています。
というか、「正攻法はコレ」と思い込んで、視野や思考の余地を狭めてしまう方が、よくないんだろうなー…と感覚的に思っています。(※ゆえによく迷う)
形から入るのもよし、まずは知識をしっかり詰め込んだうえでモノを見るのもよし…。僕はどちらかというと「知識」から入りがちなのですが…今回は本当に迷いまくっていましたので、「モノ見てビビっと来たところから行こう」とシフトしました。
そして見ていたのがこちら…。
デザインがよく似ているのでみんな同じ窯かと思ったら、実は違う窯。
モチーフにしているモノも同じだし、明らかに似ている…。
なんでこんなに似てるものが、別々の窯で作られてるんだ?
ビビっと来たのはこういうところでした。
俗にいう「学びのツボ」というヤツです。自分で見て、感じて、疑問に思うことが「学び」に繋がるのです。でもこういうツボこそ、千差万別。「こうすれば良い」とか「これが正解」という確実なモノがない。正攻法なんてありゃしない。誰かに言われても、イマイチそれがピンとこないことはよくあります。
ですので、僕の勉強部屋でも「ピンとこない」ような話は全然無視してもらって構いませんからね(笑)
明治という時代のうねり
こういう「作られた窯が違うのにデザインそっくりな器」が作られた理由を探してみると…
一つの貿易商社にぶち当たりました。それが森村組。
森村組とは一体なんぞや、ということから知ろうとすると、やはり幕末~明治の時代のうねりを知る必要がありました。
というわけで、歴史のお勉強をやり直すことにしました。今回は尾張から離れた、関東でのお話が中心です。
貿易業の始まり
時を少しさかのぼり…幕末の日本。
黒船来航から5年後の安政5年(1858)、江戸幕府は日米修好通商条約を結び、同年中に幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同内容の条約を結びます。「安政五カ国条約」というモノです。
歴史の授業で学びましたね?え、知らん?僕はねー…すっかり忘れておりました…。
「不平等条約」「関税自主権」「領事裁判権」などの断片的な情報で覚えているからダメなんですねー。いかに自分が「テストのための勉強」しかしていないか、痛感します…。
要するに…外交・貿易など国際知識が欠如していた当時の日本人が、いろいろと「不利な条件」で通商条約を結んだのですね。
この通商条約により、箱館、横浜、神戸、長崎などの港が開港され、外国人との本格的な貿易が開始されます。
荒稼ぎする外国商人
この通商条約では、外国人の居留および交易区域として特に定めた一定地域(外国人居留地)のみに限定され、ここに日本での一攫千金を目指す外国商人が集まり、また日本の商人たちも出入りし、様々な品物が居留地から外国へと渡るようになります。
その一方でいくつか問題がありました。
まず外国との取引をする上で、船による輸送が外国商人たちによって独占されていること。ここでまず日本人は不利な立場です。外国商人の手を渡らない限り、貿易はかなわない話ですからね。また金銀の交換レートの違いに目を付けた外国人商人たちによって、大量の金が日本国内から流失していくことになるのです…。
理由は様々ですが、「濡れ手に粟」で外国人商人に巻き上げられちゃった日本…。
明治維新後、新政府は「富国強兵」を掲げ、国内の殖産興業、そして外国人商人に頼らない「直接貿易」をなしえる貿易会社の設立を急ぐことになるのです。
モリムラ・ブラザーズ
幕末、開港された横浜居留地で外国人商人との商いを始めた一人の男がいました。
今回のお話のキーパーソンの片割れ、森村市左衛門です。
もともと旗本武士を相手にする武具商の家であり、市左衛門は居留地で洋服・靴・鉄砲・懐中時計などを仕入れ、それを土佐藩・中津藩などに販売していました。(ここで中津藩の福沢諭吉と出会っています)
さらに戊辰戦争のときには板垣退助の軍需品調達を担当し、騎兵用の鞍や軍服を売り財をなしたといわれます。維新後は新政府御用達の馬具を製造・販売したり、テーラー(洋裁店)を銀座に開く傍ら、外国人が好みそうなものを横浜の商館に持ち込み、貿易業の下地を身につけていました。
そしてもう一人のキーパーソンは、この市左衛門の弟・豊(トヨ)です。
豊は明治維新のあと、慶應義塾に入学し、卒業後は助教授をしていました。そこへニューヨークでビジネスをしていた佐藤百太郎が帰国し、資本を募るとともに、日本人をアメリカに連れて行き、現地の学校で商業・語学を学ばせる計画を立てます。この相談を受けた福沢諭吉が、貿易業を志す市左衛門の弟・豊を米国へ連れて行くよう、進言するのです。
この「米国商法実習生」の計画で、開国以来煮え湯を飲まされてきた外国人商人の手を借りずに、直接日本から海外へ商売を仕掛けるための足掛かりにしようとしていたのは、間違いないでしょう。
福沢諭吉の後押しもあり、豊は佐藤百太郎と共に渡米します。その渡米に合わせるように、明治9年(1876)に市左衛門は「森村組」を立ち上げます。そして豊は研修後も米国にとどまり、佐藤と共同経営の「日の出商会」を立ち上げます。明治11年(1878)には共同経営を解消して独立、これがのちの森村組のニューヨークの拠点「モリムラ・ブラザーズ」となるのです。
まだこのころは雑貨屋
当初は市左衛門が日本で仕入れた様々な雑貨を、ニューヨークの拠点へ送って、豊が小売をするという形式でした。
そこから「売れ筋」として生活食器の需要を見込み、より大規模な商いをするため、小売から卸売業への転換を図ることになります。
森村組以外にも、こうした「海外への食器の輸出」を企てたところはあり、それだけ食器が「海外で勝負できる銘柄」だったという事の裏返しだと思います。
ここまでお話した内容で、お察しできるかと思いますが…「明治の瀬戸染付」を理解するためには、「日本の文化・生活・芸術」の側面より「経済・産業・海外」という切り口が必要になってくるのです…。
だから僕がイマイチ「とっつきにくさ」を感じていたのは、このギャップを自覚していなかったからだと気づきました。
そして何より展開が急ですね。明治という時代のうねりって、凄まじいパラダイムシフトだったんだろうと思います。
そこに「瀬戸」がいかに絡んでくるのか…。次回はそんなところのお話になります。