時空を超越する猿面
勉強部屋、特別編。猿面茶席のストーリー。
ん・・・「暦」はほったらかしで、さらに別の特別編。まあ1回で終わらすので、いいでしょう。r(・∀・;)
引き継がれてきた猿面茶席
先日、僕も席主の協力者として参加したお茶会が開催されたのが、名古屋城にある猿面茶席。
かつて織田信長ゆかりの茶席として、その後も大切に引き継がれてきた有名な茶席でした。
日本には古くからある有名な茶席は数あれど、戦時中に名古屋は空襲に遭ったため、その殆どが焼けてなくなっています。
猿面茶席は、戦後になってから復元された茶席です。
もともとは清洲にあった
戦国時代、織田家がかつて居城とした清洲城。かの桶狭間の戦いにも、この城から信長は出陣しています。
名古屋が出来る前は、この清洲が尾張の中心地でした。
この清洲城にあった、幹から枝分かれした部分を、鉈で切り落とした節目が、ちょうど目のように見える趣のある床柱。
信長が秀吉に、「汝の面の如し」と、この床柱のことを指して戯れたといわれ、これが「猿面」の名の始まりだとされています。
名古屋城へ移築
その後、徳川家康が関が原の戦いにて勝利し、慶長14年(1609)、清須から名古屋への遷府が指令されると、城下町まるごと名古屋へ移り、清洲城も名古屋城築城の古材として利用されます。
名古屋城御深井丸西北隅櫓はこのときの清洲城天主の古材が用いられているため、別名・清洲櫓と呼ばれています。
この名古屋城築城の際、猿面の床柱も清洲から名古屋へお引越。時の御茶頭・古田織部の指揮によって猿面茶室として、名古屋城の二の丸に再構築されました。
江戸時代を通して、猿面茶席は名古屋城二の丸御庭にあり、上史接待の場所として、ここでお茶が振舞われていました。
しかし明治維新で存亡の危機にたたされます。
維新を乗り越え
維新後、14代藩主の徳川慶勝は新政府に対して名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出ます。しかしこれに待ったがかかり、天守は本丸御殿とともに保存されました。それでも明治5年に城内に東京鎮台第三分営(のちの名古屋鎮台、第三師団)が置かれることになり、御庭にあった猿面茶席の存亡も危うくなります。
無くすには惜しい、と猿面を守ろうとした人がいました。それが元尾張藩士・刑部玄(おさかべ げん)。国学者である石橋蘿窓から和歌を学び、茶を嗜み、書画骨董の蒐集を趣味とし、「陶痴(とうち)」と号した文化人。
猿面茶席は徳川家から刑部陶痴に払い下げられ、陶痴の自邸のある末森村入船山(現在の名古屋市千種区・名古屋大学の北部)に移築するのです。
信長・秀吉の由来のある茶席、本来であれば地域の宝として、率先して自治体が守るべき存在なのでしょうが…維新の直後、そこに眼が向かなかった時勢だったんでしょう…。まあ、そんなスゴイ茶席が名古屋城に有るのを知っていたのは、名古屋城でお勤めがある元武士階級の人たちの間だけだったのかもしれませんしね。
猿面茶席を手に入れた刑部陶痴は、自邸で茶事三昧だったそうです。
しかし「地域の宝とすべき茶席を独り占めするべきではない」という思いから、明治12年に名古屋博物館(のちの愛知県商品陳列館)へ寄贈します。こうして公共の機関へと管理が委譲され、中区の門前町に移ります。(過去の勉強部屋で聞いた「愛知県商品陳列館」とは、まさにここ)
かつて猿面茶席があった場所
尾張国焼コレクターのレジェンド・陶痴
ちょっと猿面から脇にそれちゃいますが、「尾張郷土美術史」に深く刺さってる部分なので、紹介させて下さい。
なんでもかんでも「レジェンド」と呼んでありがたがる昨今の風潮に乗っかるのは、いささか軽薄な感じがしてしまいますが…。
実は刑部陶痴という人物の功績は、猿面の保護だけではありません。
陶痴は和歌・茶を嗜むだけでなく、書画骨董の蒐集家でもありました。いわば目利きだったわけです。世界に数碗しか確認されていない伯庵茶碗のうち、1つは現在瀬戸市にあるのですが…実は、もともとの所有者は刑部陶痴だった、というのはあまり知られていません…。
古器の目利きという専門的な知識を生かし、明治18年に瀬戸陶磁工組の頭取に就任します。この間、陶痴は瀬戸を含む尾張周辺の焼き物・古美術の歴史などをまとめた「瀬戸のはな」という書物を執筆。
古美術、といっても執筆当時からしたら「ほんの100年ぐらい前の事象」をまとめたに過ぎないのですが…これが後の尾張国焼コレクターにとってバイブルとなる「をはりのはな」の原典となるのです。まあ、今じゃかなり内容が古いので、もう一度この分野を精査したほうがいい、と言われてますけどね。
いろいろあって、あまりメジャーな存在ではない陶痴ですが…実はとっても偉い人なんです。
閑話休題。
戦火で焼失、名古屋城で復元へ
愛知県商品陳列館は現在の大須・門前町通りに面した場所にありました。割と現在のウチの近所です(笑)
ここに猿面茶席が移築され、明治末期にはここで茶会が開かれていたようです。
昭和初期にこの愛知県商品陳列館が取り壊されることが決まり、猿面茶席は鶴舞公園へと移築されます。
このころにはすっかり市井でも有名になり、「本邦(日本)三茶席」の一つとして数えられ、国宝建造物としての認定を受けています。当時の日本三茶席とは、恐らく待庵、如庵、猿面だったのでしょうかね?
しかし第二次世界大戦で名古屋も空襲に遭い、鶴舞公園にあった猿面茶室は焼失してしまいます…。この戦災で焼けたのは猿面のみならず、名古屋の町方にあった貴重な太郎庵や横井也有にまつわる遺構などもこのときにまるっと焼けてしまいました。
地域の宝として親しまれた猿面の焼失から数年後、「名古屋城の再建とともに、猿面も名古屋城に作ろう」という機運が高まります。
この旗手となったのが、尾張を代表する近代数寄者・森川如春庵。幸い、茶席の古図は残されており、それを元に復元されました。厳密に言うと、あちこち改造が加えられているのですが、メインとなる猿面の床柱は厳選されて、「これぞ」というものが選ばれたようです。
現在の猿面茶席の扁額(白い胡粉で「猿面」の文字が書いてある木の板)は、森川如春庵によるもの。
茶席一つに、これだけストーリーが詰まってる席も珍しいかもしれませんね。
復元とはいえ、それでも郷土の宝といえるでしょう。
猿面茶席、行ってみたい!
基本的に、一般公開はされておらず、猿面を含む茶席は使用料金がかかります。(年に数日、無料公開の日があるみたいです)
年に二回、春と秋に名城市民茶会がここで行われており、一般の人が見ようと思うとこのお茶会に参加するのが近道っぽいですね。
どうしても不特定多数が出入りすると、庭の苔が痛みやすいみたいで・・・気軽に人が入れないよう、普段は閉鎖してるようです。
が、この間の茶会で中庭を見たところ、言うほど手入れされてる感じはなかったですね…。
道具の目利きはまだまだですが、庭の手入れに妙に厳しい僕の目は誤魔化せませんよ~。(笑)
お金とって貸すからには、お庭もキレイにしてほしいもんです。