了入と尾張の茶人たち
名美アートフェア2024では、たくさんの方にお越しいただき、ありがとうございました。
まずは知ることから始めよう
「一樂會」という組織がどんなものなのか、未だあまり周知がされていませんが…少しずつ、知ってもらえればいいです。そんなすぐに大勢の人に知られるような、メジャーなもんではないというのは、僕が一番よく解っています。
100年前の、かつての一樂會も「ごく一部のモノ好きたちが始めた催しに、後からいろんな人たちが増えていく」というような、巻き込み型の規模拡大を図っていったように感じます。「尾張にこんな人たちがいて、こんな焼き物の窯があったんだ」ということを、まずは知るのが第一歩だと思います。
知ったら、いろいろ考えてみよう
ただ見るだけではなく、いろんなものを見たうえで、いろいろ考えをめぐらし、考察するのも古美術の楽しさの一つです。
一樂會誌の緒言でも「啻(ただ)に鑒賞(かんしょう)の樂を得たるのみならず、彼此(かれこれ)相比較して研究の益を得たる事、寔(まこと)に鮮少にあらず。」と語っています。
この「研究」ということを、日ごろ実践している僕は、この言葉に大きく首肯いたします。
が、最近はどーも「勉強部屋」の更新が滞っており…。
今回のアートフェアでは「一樂會」を特集するので、そのブースのなかで関連した「プチ勉強部屋」のようなものを発表して、読む人の反応をリアルタイムで見てみようかな…なんて画策していました。
まさかの展開
A4用紙で、計3枚のチョコっとした資料を用意しました。
今回のブースでは「尾張の楽焼」がテーマで、その中に「了入との関係がある人物」が二人おり、これについて調べてみて、年表を見ながら考えてみたことをまとめてみた資料でした。これぞ、リアル・プチ勉強部屋…。
しかし初日、午後。3ページ中の1ページ目だけが、なくなっとる……。
おーいおいおいおい…(‘A`)
だっ、誰じゃー!勝手に持って行ったヤツ!どろぼー!
いやー…全く想像だにしてませんでした。
目を離した隙に、誰かが持って行っちゃったみたいです。それも、1ページだけ…。
配布資料と勘違いしたとしても、1ページだけでは「まるで意味がない」のですが…。
思わぬ形で出ばなをくじかれ、読む人の反応をリアルタイムで見ることは叶わず。(苦笑)
と言う訳で、改めてブログの方でご紹介させてもらいます。
いつ頃、了入と関わりがあった?
「了入との関係がある人物」とは、ひとりは元・尾張藩家老職の渡辺又日庵。もうひとりは岐阜奉行所の安藤百曲。
どちらも楽焼の作品を作るにあたって、了入の技術指導を受けていたと伝わります。そこで『了入の来歴を中心に、尾張の茶人たちがどんな関係を持っていたのか、年表を追って理解を深めてみよう』という趣旨の資料でした。
で、年表の半分だけ持っていかれちゃったのですよ…意味ねぇ(笑)
こちらがその半分の年表。了入が隠居するまでの年代です。
見てもらえれば、お分かりいただけると思いますが、了入の方がかなり年上なんですよね。親子ほどの年の差があります。
又日庵も、百曲も、具体的に「いつ、了入と関わったのか」を示す資料が残されていません。もしかしたら、きちんと探せばあるのかもしれませんが…探し切れておりません。
なのに「了入を自邸に招いて楽焼を作った(又日庵)」とか、「了入に師事して、岐阜の自邸で楽焼を焼いた(百曲)」とか、それぞれの来歴だけは現代に伝わっています。僕は正直、これを疑っておりました。「作者・作品の箔付けに、了入の名前を勝手に使ってんじゃねーの?」と。
そしてもう半分の年表をご覧ください。
年表のオレンジ色の部分は、根拠なき推測部分です。
了入は「樂家中興の名工」とも呼ばれ、隠居後も精力的な制作活動を行っていたことが知られます。64歳にして、紀州家の御庭焼に旦入と共に従事していますからね。かなり元気なおじいちゃんです。
そして数え70歳にして、石山に隠棲するわけですが…この紀州家御庭焼から隠棲までの「文政3~8年」までの5年間、特に具体的な事跡は分かっていません。
ここに「一定期間、尾張周辺に来て、楽焼の制作指導をしていた」と仮定したら、又日庵・百曲はどうだったのだろうか?という推測を立てたのです。
この5年間であれば、その可能性もあるんじゃないか…。又日庵であれば、自身が尾張藩家老職を辞して、隠居するタイミングです。お仕事から解放され、風流ごとに時間を費やせます。百曲はちょうど名古屋から岐阜に赴任してきており、「岐阜の自邸で」という事跡とも、合致します。了入の老齢を考慮しても、ここぐらいしかチャンスがない。尾張・岐阜まで来ていたのかもしれない…?
初めは関係性を疑ってたんですが、こうして資料を作ってみることで、その疑いはかなり晴れました。
「無くは無いな~」って感じです。実際はどうだったか、分かりませんけどね。
アンオフィシャルな事だった…?
なんでまた、こんなに曖昧な形で伝わっているのか?
多分、了入と尾張の茶人の関係が語られることって、今までほとんどなかったと思われます。なぜかといえば、結局のところ「具体的な証拠がない」ということに尽きるのです。資料がないことには、どうしたって「伝え聞く話」だけでは弱すぎます。(さらにいえば、こんなニッチな分野にクソ真面目に取り組む人は、全国的に見ても皆無でしょうし)
資料が残されている話であればこそ、しっかりとした関係性が伝えられるのです。それこそ紀州徳川家の御庭焼は「藩」という公的機関の関係ですから、歴史を辿ることができる。
一方で、又日庵による楽焼は、あくまでも「茶人としての個人的な楽しみ」の範疇。百曲も同じことです。
これがもし、尾張藩としての公式な招致などの事跡だったとすれば、現在でももっと広く関係は知られていたでしょうが…そうではありません。
そもそも、尾張には「豊楽焼」や「笹島焼」があります。藩内には優れた職人たちがいるのだから、楽焼を作らせるなら、それで間に合うはずです。実際、尾張藩の御庭焼である「萩山焼」では、豊楽焼や笹島焼から陶工を招致して、楽焼の道具を作らせたりしていますから。
『樂家に頼んで焼き物を作ってもらう』ということは、了入没後の尾張徳川家十二代・斉荘(知止斎)の代になるまで、待たねばなりません。(知止斎は旦入に依頼して京都で楽焼の作品を造らせています)
さらに言えば了入さえも「隠居後」という立場を鑑みたら、もう「樂家の当主」ではなくなっているのですから、公式な記録として残りにくいのは仕方がないと言えるかもしれません。(紀州徳川家の御庭焼は、当時の当主・旦入との共同ゆえに記録に残ったともいえる)
この先の未来、もっと深いところまで研究が進めば、この辺りの事も明らかになってくるのかもしれません。