尾張茶人名鑑:瀧本土休

過去の勉強部屋の《書き直し》です。

ところどころ内容は共通していますが、新たに書き直しています。

「老に及んで猶矍鑠として壮者に異らず」

実はそう書き直すほど、新たな情報があるわけではないのですが…まあせっかくなんで作っておきます。

瀧本土休(どきゅう)は江戸中期の人。通称は善七といい、下呉服町に住んだ優れた左官職人として知られた人でした。

風雅を好んで、壮年のころに京に赴いて松尾翫古斎(松尾家二代)に師事した茶人でもありました。名古屋市史人物編によると、武士や商人など幅広い交友を持っていたようです。

尾張の茶の湯文化の隆盛を支えた一人だった…かも?

他の茶人の紹介の時にも、たびたび似たような説明をしており繰り返しになりますが…江戸中期の尾張では、町方を中心とした茶の湯文化の大流行によって、【茶の湯に関する様々な需要】が極めて高騰していたと想像されます。

茶の湯を学びたい人は「宗匠」を求め、点前を習得した人は「道具」を求め、茶事を催したい人は「茶室」を求めたことでしょう。

これらの需要が連鎖反応の如く、高まっていったと想像します。

「尾張の茶道」の中の「尾張の文化と茶:2 尾張の茶・侘茶」において、中村昌生氏はこのように述べています。

こうした尾張の人の気質は、土着的なものであろうが、また茶の湯の感化によるところも大きいと思う。茶の湯でもとくに侘茶である。襟度を内に蔵しながらどこまでも質素と謙虚さで包み込む態度は、侘茶人のそれと変わらない。旦那衆たちは「手前どもは侘茶で」と謙(へりくだ)る。

(中略)

そこには京都の茶の高さへの徹底した尊敬の念がひそんでいる。京都を学ぶことによってみずからの茶を形成してきたのである。そして京都の茶には絶対にのりこえることのできない高さにあるという認識にたちながら、自己の境地を卑しむことはしない。知足安分を悟り得た独自な茶境が尾張の茶人には備わっている。

(中略)

基本的な素材は京都に学ぶが、茶の美術や工芸はすべてにわたって地許(じもと)に工房をもっている。わざわざ京大工をよんで茶室を建てるというような人は昔から余りいなかった。茶の湯普請を体得した大工は幾らでも地許で育成されたからであった。

今現在の尾張の人たちが、どういう気風なのかは…はて?さて?…僕からは、よう言わんですが…(苦笑)

この地方、元来の風土というか、昔ながらの「名古屋人の気構え」は、このようであった、というのに僕は結構、納得感があります。

尾張の絵描きは皆、京へ上って勉強してから、一人前になって地元に帰ってくると父親から教わりました。まずは京へ行くのがあたりまえ。

江戸中期、茶の湯を志した尾張町方の旦那衆だって、同じですよね。初めは宗和流でしたが…最終的に皆、京の家元へ自ら参って、稽古をつけてもらう。スタートはまず【京に学ぶ】ことから始まっているのです。

(かくいう僕も…東”京”へ丁稚修行に行ってましたしねぇ…尾張のスピリッツは受け継いでいるのかな?)

茶の湯に必要な「茶室の建築」に関しても、恐らく同じようなプロセスを踏んでいる、という想像が働きます。

大工の棟梁

「いきなり『茶室作れ』と言われても…ワシじゃあ分からんでよぉ…おみゃあさん、京に行って、みっちり茶の湯を学んでこやあ。」

炉壇や、草庵の土壁など、左官の技術は茶室に欠かせませんからね。瀧本土休は、きっとそういう経緯で京都に上ったのでしょう(僕の勝手な想像ですからね)。

炉壇(ろだん)とは…?

茶室の床(ゆか)、畳を切り込んで設ける、「釜をかける炉」の部分。特に「土塗」の四角い箱を「炉壇」あるいは「炭櫃」と呼びます。

利休以前の書院の茶の時代は、一年を通し風炉で湯を沸かして茶を点てていましたが…珠光のころに田舎家の囲炉裏から着想を得て、茶室に炉を切る(床を切り、そこに炉壇を設置する)ことが始まりまったといわれています。当初の寸法は様々だったのが、やがて紹鴎・利休の頃に1尺4寸(約42.4cm)に定められました。

炉壇は、木製の箱の内側を土で塗り固めて、そこに灰と五徳を設置し、火のついた炭をくべ、釜を掛けて湯を沸かすための設備。

実は「土塗」であることにはいくつか理由があり、炭を熾せるだけの【耐火性】があるのはもちろんのこと、金属製の釜をうっかりぶつけてても、硬度が『釜>土塗』なので、土塗の炉壇の方が負けてくれることにより、【道具を保護する役目】もあります。また、茶の湯で使用し続けていると、炭の粉や煤が付着して、どうしても炉壇は次第に汚れていきます。また上記の様に釜を誤って接触させて炉の内部が欠損してしまうこともあります。でも土塗なら再度塗りなおすことが可能なので、【繰り返し長く使い続けられる】というのも大きな利点です。

現在では、この土塗の炉壇に代わるものとして、陶器製、金属製、石製(石炉)も存在しますが、本来の役目を果たせるのはこの土塗の炉壇であり、他の炉壇と呼び分けるために「本炉壇」と呼んだりもします。石製では釜をぶつけた際のダメージが極めて大きく、金属製だと灰のアルカリによって腐食の懸念がついてまわり、陶器製では欠損・破損した際の補修が効かずに美観を保つ長期利用に向かず、どれもある程度割り切って使わないといけません。

お茶の世界では11月から「風炉→炉」に切り替わり、「炉開きの季節」と呼ばれます。この炉開きに合わせ、茶室の炉壇を「塗りなおし」してお客を迎え、この炉を4月の終わりまで使い続けます。

当時の左官職人の仕事として、土休にもこの「炉壇の塗りなおし」の依頼が毎年舞い込んできたはずです。

茶室建築を学ぶうえで、結局は茶の湯の世界の事を知らんと話にならんでしょうから、松尾宗二に師事したのは言うまでもありません。

そして尾張に戻ってきて「なにやら京の茶室建築を学んで、名古屋に帰ってきたヤツがおるらしい」となれば…皆こぞって土休に茶室の建築を頼んだのでしょう。ゆえに武士や商人など幅広い交友があったのだと思います。実際、土休以外にも同じような職人はたくさんいたはずです。ただ名前が現在に伝わっていない、忘れられてしまっただけでね…。

土休は菩提寺である西光院に「粗糲庵」という茶室を建てており、「老に及んで猶(なお)矍鑠(かくしゃく)として壮者に異(かわ)らず。」という人物評があることから、晩年まで茶の湯を大いに楽しんでいた人物だと思われます。

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