尾張茶人名鑑:河村曲全

過去の勉強部屋の《書き直し》です。
過去のブログ記事と、ところどころ内容は共通していますが、新たに書き直しています。
天満屋九兵衛
河村曲全(かわむら きょくぜん)は、通称を「九兵衛」といい、尾張名古屋で材木商「天満屋」を営んでいた江戸中期の豪商です。
堀川沿いの上材木町(現在の錦1丁目)は、かつて名古屋城の築城に際して京・大阪から材木問屋が移ってきて形成された(つまり清州越しで出来た町ではない)町で、その中の1軒に天満屋もありました。河村家の先祖はもともと大阪・天満の商人で、屋号もここから取っていると言われています。『尾張名所図会(全編二・海福寺)』によると、曲全はこの天満屋の四代目とされます。
『千家の茶道を起こすに功のある者なり』
号を「曲全斎」と称し、茶の湯は初め、宗和流の中島正貞(正員)について学び、後に原叟(表千家6世・覚々斎)の門に移って、京都で如心斎から真台子皆伝を受けています。
当時はまだ尾張において、庶民を相手に茶の湯を指導する立場の人は殆どおらず、家元へ稽古をつけてもらいに京都へ出向いていた時代でした。
『尾州千家茶道之記』によると、『町田秋波(表千家の出張教授)を尾張に招請して、千家の茶道を起こすに功のある者なり。』と功績をたたえられています。
曲全をはじめとする尾張の商家たちの間で茶の湯が流行、「師伝正しき茶の湯」を学びたいという旦那衆が出現し、「教えを受けたい人が沢山いるので、尾張に来て茶の湯を教えて下さい」と、千家にお願いをしたわけです。町田秋波は原叟の指令を受け、尾張で亡くなるまでの3年(?)ほど、出張教授として千家の茶の湯を指導しました。秋波の歿後、なおも指導者を求める声を曲全が代弁し、松尾宗二が秋波に替わる出張教授として尾張に派遣されたことで、この地域の町方では千家茶道が隆盛することとなったのです。
『茶道をよくし道具の目利など名あり』
『尾州千家茶道之記』には『茶道をよくし道具の目利など名あり』ともあり、書画・茶道具の収集も行い、名物と呼ばれる希少な茶器も所有していました。
また京都に上った際に楽吉左衛門(時代推定:七代・長入)のところで作った手造の茶器や、自作の茶杓、好みの茶器なども残されており、茶人らしい創作活動の様子も随所に伝わっています。特に茶杓は多彩な「竹材」に特徴があり、材木商ならではの仕入れルートを駆使して、変わった景色・見どころのある竹材を厳選していたように思います。
如心斎から真台子皆伝を受けたことで、晩年は曲全自身が茶の湯の指導者という立場になり、多数の門弟に教えていた伝わります。尾州千家茶道之記の著者・大橋遅松もその門下の一人。この門弟たちの中には尾張藩士もおり、当時の尾張おいて相当に高名な茶人だったのは間違いないでしょう。
ちなみに、現在では「曲全流を立てて」と、千家流から独立したかのような紹介のされ方をしている書物もありますが…僕はこの記述には懐疑的です。恐らく教えていたのは千家の茶の湯であり、流儀として別に家を建てたわけでもなく、あくまでも「誰に教わっているか」を表現するための「曲全流(曲全に教わってる)」というのが、後世に誤解されているのではないかと思っています。この曲全流が流儀として現在にまで伝わっているわけでもなく、それを確かめる術はありませんが…。
尾張の町方茶道の先駆者であり伝道者
京や江戸に後れながら、尾張でも町衆たちの間で茶の湯が行われるようになった、初期の世代の一人です。
同じ尾張の茶人である高田太郎庵とは、同世代かつ同門(宗和流→原叟門下)として交流があり、2人セットで語られることが多いです。
『尾張の茶道』の数寄者列伝・曲全斎と太郎庵の中では…
曲全斎、太郎庵とも、数寄の者としては伯仲しているが、岡谷真愛(※)は「わたしは、茶略としては、太郎庵よりも曲全斎の方が一枚上であると思っている」と、よく茶友に語っていた。(※原本の誤字を修正。岡谷家10代のこと)
という一文が唐突に差し込まれているのが、結構印象的です。
…曲全という人物を理解するうえで外せない内容なのかもしれません。
太郎庵も茶人としては良く知られた名前で、名古屋の茶人たちの間ではどちらかというと太郎庵の方がよく聞くかもしれません。
しかし岡谷さんの言う、『数寄者・茶人としては曲全の方が一枚上…』というのは、曲全が尾張の町方における「茶人としての先駆者」であると同時に、多数の門下を育てた「茶の湯の伝道者」でもあることが、太郎庵と比較した時の違いでしょうか…。
曲全は道具の目利きも優れていたことから、門下や知人から箱書を依頼されることもあったと想像され、数は少なくとも曲全の箱書がある道具は伝世しております。一方、太郎庵は狩野派の絵を学んでいたことから、絵画の作品は多数残されているものの…道具の書付という点ではかなり数が少ない印象です。(俗に太郎庵伝来とされる貼紙については太郎庵の時に…)また、晩年まで指導者として茶の湯の稽古をしていたことが大橋遅松によって「尾州千家茶道之記」に記されている曲全に対し、晩年の太郎庵は古渡に隠棲し、世との関わりを断って独り茶の湯を楽しんだと伝わります。
後進に道を示し、導いた曲全の方が一枚上、という理解をしております。

