憂いの歳末

実は珍しい「年末投稿」だったりします。

年々、1年経つのが早くなっている気がする…。こういう事を言いだすと…いよいよ若くないなぁ、と。

人には等しく時間は流れるので、大体こういうのは「気のせい」なんですけどねー。

それでも皆さん、「今年は1年早かった」と感じるのではないでしょうか?

2023年を振り返る

新型コロナウィルス感染症が、感染症法上の分類が5類移行となって、ここ数年のあらゆる規制が緩められ、社会がグググッと動き始めた1年。それまでいろんなことが中止・延期となっていたため、比較的「いろんなことがあった1年だ」と感じやすいでしょう。

僕も個人的に「いろいろあった1年」でした。普段は年末、店の会計残務に追われて、1年を振り返るなんて余裕も無いのですが…思わず振り返ってしまいます。(今年は大丈夫なのかって?これから追い込まれるんですよ…はあ…)

最近の話だと、やはり茶会の手伝いが多かった。特に11月~12月が怒涛でしてね。まあいい事だと思うんです。思うんですが、なぜかボンヤリと不安な気持ちに襲われます。

そして身近な話だと、業界の若手組織の要職につきましてねぇ…。僕は普段からちゃんと考えているように見えて、実はあんまり考えてないという、真面目系ポンコツなんですが…。そんな僕でも役職につかざるを得ないほど、若手が少ない、人材難なんですね。

最近僕が浮かないのは「単に疲れてる」ってのもあるんですが、なんとなしに将来の不安をより実感を持って感じ、なおかつ打開策を見いだせずにいるからなのかもしれません。

今回はそういう不安を、ただただ垂れ流すだけの投稿です…。

縮小していく運命

「今後、どうなっていくんだろうね?」

ある茶会の手伝いを終えて帰る道すがら、同世代の若手業者さんからフワッと将来の話を振られました。僕らはお茶会の「実働部隊」として働いたわけですが、明らかに「若い人が少ないな」と。お客じゃなくて「実働部隊の若さがない」と。

そりゃそうです。この国が、この社会が、どんどん「若い人が減っている」のだから、業界問わずどこでも同じ状況でしょう。

「上の世代の人たちは『お茶をやってる若い人がいない』って嘆くけど、普通は若いうちからお茶できるわけないっすよねー」

前の投稿でも言いましたが、今の若い人に、そもそもお茶を習う時間がないんだから。個人的に「お茶をする若い人が少ない」と嘆いたところで、それに対処するために出来ることって、殆ど無いと思います。

そもそも僕は以前から、「いつになるか分からんけど、将来的に『大寄せ茶会』は本質的に消滅する」という予測をしておりました。

大寄せとは、総勢何百人単位のお客さんが、1日に何席も茶席を回る、そんなタイプの茶会。1回の席に何十人というお客をつめこみ、お茶碗は点て出しで、数十分で席を終わらせる。この形式を維持していくには、それをこなせるだけの『実働部隊』が不可欠です。その実働部隊が減っている。若手の業者もそう。お茶の稽古場の社中もそう。共働きが増えて専業主婦の奥様も減っている。実働部隊を担う人材のすべてが減っているのですから、そりゃあ…いずれ立ち行かなくなりますよ。

それに『費用』の面でも維持が困難になるでしょう。それなりの参加者がいて、相応の会費を集めていたから回っていたのが、人口減で参加者が減り、減った分を補填するため会費を上げざるを得ず、さらに参加者が減る…。このスパイラルに陥れば、いずれ費用が賄えなくなるでしょう。

これはもう今に始まった話ではなく、僕は修行中の頃から思っていたことでした。人も金も足りないだろうから、規模を小さくせざるを得ないだろうな~、と。大寄せから中寄せ、そして小寄せと…。

「お茶をできる人」も減る…?

一方で、僕は「(個人でやる)茶事はもっとも基礎的で、安定した、無理のない形式だから、この先も茶の湯の文化は無くならない」という信念がありました。

何となく『茶事』と言うと、敷居の高さを感じる方がいるかもしれません。僕は修行先で茶事の手伝いを何度も経験していることから、この考えられた「無理や無駄のない形式」を分かっています。工夫をすれば、きっと誰にでもできます。大寄せで何百人という客を相手にするより、気心知れた数人を相手にする方がよっぽど楽だと、思いません?呼びたくない人は、呼ばなくていいんですから。自分のできることを、すればいいだけですから。

だから「いずれ個人が茶事(のような小規模な会)を楽しむことが、『お茶をすること』のスタンダードに回帰する」という未来の展望を持っていました。

「一か所に大勢が集まるのではなく、限られた少数で楽しむ小規模な会が、あちこちで行われるようになるんじゃないかな。」

茶会の手伝いの帰路、僕はそんな話をしていました。

ところが…。

今年、稽古場の社中で茶会を計画したり、業界の若手組織で釜を掛ける準備をしたり、単なる「茶会の手伝い・実働部隊」ではなく「茶の湯を主催するサイド」としての経験をしたことで、ある『気づき』といいますか、見方が少し変化したのです。

文字に起こすと、至極当然のことでちょっと馬鹿っぽいですけど…

「茶の湯って、誰かが催さないと、始まらない」と、改めて思い知ったのです…。

ではこの「茶の湯を催す」のは、どういう人か…?

お茶の先生、お茶人、数寄者…いったい、「お茶ができる人」って世の中にどれだけいるのか…?

この疑念を抱き、僕の信念が思わずグラっと揺らいじゃったのです。これは大寄せとか、茶事とか、それ以前の問題だわ、と…。

「お茶を習っている」≠「お茶ができる」

お茶を習っている人たちに質問です。

今、あなたにお茶席を主催することは、できますか?

10年後、あなたは釜を掛ける願望はありますか?…20年後は?

具体的にこの想像をできる人が、将来、何人いるのだろうか…。とてもとても、不安に思ってしまったのです。

自分が主催者サイドで計画する経験を通して、この「茶会を催す」ことのハードルの高さを痛感しました。道具の取り合わせを考える上での知識・経験・発想力の必要性だったり、茶道具を揃えたりする金銭的なハードルもありますが、心理的な負担が並大抵ではない。そんな心理的なシンドさから『誰か代わりにやってくれないかな…』という気持ちが、ついうっかり顔を覗かせた時…『きっと他の人たちも、同じなのかもしれない』と気づいたのです…。

思えば、稽古場の茶会も、業界の若手組織の掛釜も、どちらも「自分がやりたい」という気持ちより、組織の一員して動く都合上、いろいろな理由があって釜を掛けることになったのです。心理的なシンドさの根源はこの辺にありそうです…。(決してやりたくない、というわけではないのですが)

それに「お茶を習っている人」の多くが「茶会のお客をするだけで停滞している」という、そんな印象も抱いてしまいました。「私にはお金もないし、席主なんて無理だから」みたいに、最初から諦観してるような…。これはまあ、僕の個人的な極めて狭い世間の印象論といいますか、勝手な思い込みかも知れないのですけれど…。

こんな調子じゃ、「お茶ができる人」も、人口減とともに減っちゃうよなぁ…。

「お茶会にいきたい!」って人はいるけど、「席主やりたい!」って人は本当に数少ないですよね。

ただ漠然と「お茶を習っている」だけでは、「お茶ができる」ようにはならなさそう…。

かと言ってねぇ~…「人に言われてやらされること」ほど、シンドイ・ツマランものはないです。

だから「お茶をやれ(釜を掛けろ・席主しろ)」とは、なかなか言えんのです。お茶の先生とか、お茶ができる人ほど、そのロジックは分かり切ってるから、「やれ」とは言わないんだなぁ…。

やべーなぁ…詰んでないか、コレ?

どうしていいか、わからない。

「お茶ができる人」が減っていくことは、即ち茶事・茶会といったあらゆる「茶の湯の会」が減ることと直結する…。そう劇的に変化するものではないでしょうが…この先、少しずつ減っていくのでしょう。そうなりゃ、道具も売れない。簡単な需要と供給の話。

何とかして「お茶をできる人」を増やしていかないとなぁ…でも、どうしたらいいんでしょう?

僕に出来ることは何なのか…今のところ思いつかずに、気分が沈んでいます。

そもそも、僕一人でどうにかできるレベルの話ではない、という気もします。

どこからか「アンタが席主やればいいじゃない」という声が聞こえてきそうですが、それでは本質的な問題解決になってない…。

道具屋さんが釜掛けるのは、半分は販売促進活動ですからね~。「お茶ができる人=道具を買ってくれる人」が減ってしまえば、ちっとも響かない鐘を打ってるようなもんです…。

「この道具を使って、お茶をやりたい」って思ってもらえるように…地道に道具の面白さを伝えていくしかないのかなぁ……?

それは…今までと、あまり変わりがなくないか…??うーん…。

年の暮れに、なんて辛気臭いネタをぶっこむんだ…という気もしますが、実際気落ちしてるんだからしょうがない。(疲れてるのが原因なので、休めばそのうち元気になるでしょう…)

まあ悪い気は年内に吐き出して、年が改まったら、一からまた頑張りましょう。

ウダウダと長い文章で失礼しました。

皆さま、良い年をお迎えください。

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