平沢九朗
こんにちは。春らしい陽気がようやくやってきて、ますます花粉症に苦しめられているマエケンです。記念すべき初回の勉強部屋、平沢九朗を取り上げたいと思います。
九朗の概要
江戸後期の尾張藩士。明和9年、只右衛門の子として生まれる。寛政3年、藩主・徳川宗睦の側小姓、同8年には小納戸に転じ、奥番を兼ねる。同11年に父の遺領を継いで400石を授かる。享和元年、高須の用人を命ぜられるが、翌年、病に伏せて退隠し、家を長男の一胤(陶斎)に譲る。
退隠後は清水坂にあった小金ヶ谷養老園に移り、茶の湯、陶芸を本格的に開始。自邸には「今昔庵」「舊庵」の二席を持ち、有楽流の茶の湯を嗜み、平尾数也(尾張藩数奇屋頭)、松尾宗吾(松尾流五代)、小堀宗中(遠州流8世)、不蔵庵龍渓など、流派を超えた多彩な茶人たちとの交遊が伝えられている。
陶芸の才はすでに当時から評判が高かったようで、九朗が在世のときの茶会記(というよりも、九朗が客として参加している茶事)に、「水指 瀬戸 九朗作」の記述がある。瀬戸釉(鉄釉)以外にも、志野、織部黒、織部、黄瀬戸、唐津などの作品を制作している。
九朗の作品
もともとが武士なのですが、九朗は様々な陶工とも関わりが深く、中でも近世屈指の瀬戸の名工として名高い、加藤春岱とは昵懇の間柄であったようで、春岱の手を借りていると思われる作品が多数あります。「九朗」彫銘の香合と、姿形が瓜二つの「春岱」の共箱が添っている志野の香合はかなり面白い存在です。同じとき、同じところで一緒に作られている作品であることは間違いないでしょう。
こちらの鶴の香合、蓋の裏側に「九朗(花押)」の彫銘があります。今手元にはこちらの九朗の香合しかなく、春岱の共箱の香合は写真でしか見たことがないのですが・・・本当に瓜二つです。いつか機会がありましたら、二つの鶴を並べて比べてみたいですねぇ・・・。
九朗の作品には「九朗」と花押の彫銘、もしくは「く」の字の彫銘があります。共箱には「九朗」の署名と花押、もしくは「松」の陰文の印が捺されています。
九朗が家督を譲った長男の一胤(陶斎)ですが、若くして亡くなってしまったため、次男の住胤(松柏)が平沢家を継承し、父と同じく「九朗」を名乗っています。彼もまた茶の湯に精通し、陶芸の才も父から引き継いだようで、父と同じく「く」の字の彫銘のものが伝えられています。(「く」の字の父と子の見分けは非常に難しく、更なる勉強が必要なのですが、とりあえず今回はここまで・・・)
現在、九朗の焼物を継承している人はいるのでしょうか?
こんにちは。コメントありがとうございます。
>九朗の焼物を継承している人はいるのでしょうか?
九朗の子供たちも陶芸が巧みだったようですが、その後は続いていないようです。窯屋・窯元などの陶工たちとは違い、尾張藩士である彼らが焼物を作るのは、あくまで「趣味」であり、個々を「アマチュア」という枠組みで捉えるべきかと思います。
「平沢家という家系の継承」という意味では、大正の頃まで平沢家は続いております。一樂會で「平沢九朗」を取り上げた回では、九朗の遺作の旧蔵者として九朗の曾孫にあたる人物の名前が挙げられています。(今現在の平沢家については、僕もよくわかっていません)