尾張茶人名鑑:杉山見心

過去の勉強部屋の《書き直し》です。

ところどころ内容は共通していますが、新たに書き直しています。

『茶を好み手造する所の茶器、世人に賞玩せらる』

杉山見心は江戸中期~後期の尾張藩士であり、茶人です。名は初め「藤五郎」のちに「良隆(よしたか)」、通称を「伝蔵」といい、「見心(けんしん)」は号です。

尾張藩士である鈴木安太夫の子として生まれ、後に杉山元右衛門重次の養子となり、安永元年(1772)7月、養父の遺領400石を継ぐ。熱田奉行、御側用人をつとめた有能な官吏だったようです。

茶の湯は誰の門下であるとか、どんな流派を学んだかという事跡は伝わっておりません。しかし「不退庵」という茶席を持ち、この茶席は「不審庵の写し」だったとされることから、表千家と関わりの深い茶人だったと思われます。千村伯就も尾張藩士でありながら、千家の宗匠となった河村曲全について茶を学んでいたことからも、「藩士の中にも千家の茶を学ぶ士がいた」ことは想像に難くありません。

過去の杉山見心の紹介でも触れていますが、生みの親である「鈴木安太夫」なる人物も、どうやら曲全について学び、曲全没後は川上宗雪、堀内宗幽について茶を学んでいたことが「尾州千家茶道之記」で言及があり、凡そこの血縁関係の中で千家との関わりができた可能性を感じています(今もって、「尾州千家茶道之記で言及の有る鈴木安太夫」が「見心の実の父親」なのかは、定かではないのですけれど…)

※見心自身は寛延3年(1750)の生まれですから、宝暦11年(1761)歿の河村曲全と直接かかわったとは考えいにくいです。

瀬戸での手造茶器

名古屋市人物編の人物評にもあるように…見心は尾張の茶人の中でも、「やきもの好き・アマチュア作者」として比較的早い段階で在印・在銘の作品を残していた一人です。

大抵、茶の湯に傾倒し、自ら手造の茶器を造ろうとする場合…比較的簡単に作れる「楽焼」がもっとも多いパターンです。見心よりも時代が先行した曲全、伯就など、楽焼による手作りの茶碗の作例はありますが…。見心の場合は「本焼(楽焼よりも焼成温度の高い焼き物)」による手作り茶器の作例が残っています。瀬戸へ赴き、そこで茶器を造っていたようです。

過去に紹介した時にも説明しましたが…楽焼だろうが本焼だろうが、「茶人が手造の茶器を造る」といっても、自分一人でできるわけがありません。その道のプロに協力を依頼して、作っているはずなのです。尾張という地域は、古くから陶器の生産地(瀬戸・常滑)が身近にあり、かつ窯業が盛んに奨励されていたことから、焼物師とも接触しやすい土地柄だったのでしょう。

見心は「瀬戸の窯で手造りした」と分かっている稀有な存在であり、当時の瀬戸の陶工(加藤春宇)の在銘がある作品に、見心の印が捺された器物が現存します。

河村蝸牛(1733-1818)が同じく尾張の茶人として、豊楽焼の陶工を指導して自分の好みの焼き物を焼かせていたのと同じように、見心もまたそういうプロデューサー的な役割を果たしていたと想像をします。時代もこの2人は近しい世代ですし、彼らの名前が器物に残っていることで、世の中(尾張周辺)の茶器の需要が極めて高かった時代背景をより如実に感じます。

書物によっては、「見心は唯、自家の用に供する為に作りしを以って、多く世に伝えず(をはりの花)」という書かれ方をしております。まあ、実際に伝世する見心の作品って少ないのですが…「自家用だけ」というのはちょっと言い過ぎかもな?という感覚を持っています。

まず作品本体に「見心」の銘を入れることはいいとしても、さらに「見心の共箱・銘つき」が添っているものもや、「年賀」という印が捺された見心の手造茶碗も存在します。あきらかに「誰かしらに贈る茶器」として、作っている節が見えます。釉薬も「古瀬戸釉(鉄釉)」「黄瀬戸釉(灰釉系)」「瀬戸黒(窯変?)」など、バリエーションもいくつかあるので、恐らく複数回にわたって焼いているのは間違いないでしょう。

道具が足りなかった説

これは想像の域をでませんが…こうした手造茶碗を披露する機会、つまり茶友を自邸に招いた茶事をした際に「おぉ…これ、エエがね!ワシにも茶碗作ってちょおよ(名古屋弁)」と、頼まれたのではないでしょうか?

想像するだに、このころの尾張の茶の湯界隈って「絶対的な茶器不足」に陥っていたと思うのです。茶の湯の人気が高まったのはいいけれど、「お茶をしたくても、茶道具が手元にないことには、茶はできん」という状況が発生していた…。そもそも「古い伝来の道具」って絶対数に限りがありますし、そういうのは既に「収まるべき所に収まっている」し、古い道具って、失われること(破損・焼失)はあっても、分裂したり増えたりすることはまずありませんからね~(時代が近代まで下れば、何故か増えるという噂が……???)。

そこへ来て、「手作りの茶器」は物珍しいし、かつ「売り物」でもないから、まあまあ手に入れやすい…(あくまでも茶の湯を通した親密な関係性がある上での話でね)。僕の身近にもねぇ…なんでもかんでも「これ、ちょうだい(タダで)」っていう御婆チャマがいるのですよ…(ウチ、美術商なんですけど…?)。多分あの感じじゃないかなぁ…江戸期の尾張のチャキチャキ茶人たち…(笑)

きっと道具を渇望する茶人たちには、手造茶器って重宝した道具だったと想像します。手に入らないから自分で作っちゃうし、作れる人が身近にいたらその人から分けて貰う。その最たる状況が、見心よりもあとの世代の茶人である、平沢九朗で如実に起きているのですから…。

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