尾張茶人名鑑:若山帰入

過去の勉強部屋の《書き直し》です。
ところどころ内容は共通していますが、新たに書き直しています。
『無類の数寄者なり』
若山帰入(きにゅう)は江戸中期の茶人です。通称を「亀屋六兵衛(善左衛門)」、号は「帰入」です。
「尾州千家茶道之記」では
本町下に隠居して草結庵帰入と云う。久田宗也門人で無類の数寄者なり
と言及されており、「茶の湯・数寄」にどっぷりとハマった人物であると想像されます。
ここで言う久田宗也とは、久田家の4代不及斎宗也のことで、同じ尾張の茶人である高田太郎庵と同門です。
また「茶人系譜」では
亀屋帰入(喜八)尾州の人、酒造家、太郎庵の茶室扁額草結庵の号を受けた。
家業が酒造家?とのことであり、やはり尾張町方の旦那衆の一人であったようですが、詳細な事は良く分かっていません。
そして同郷かつ同門の太郎庵から、扁額をもらい受けて「草結庵(叢結庵)」という茶室で隠居をしていたようです。これは太郎庵がまだ「太郎庵」と名乗る前に用いていた高田三郎左衛門の庵号であり、2人に交流があったことを示しています。
鈍太郎を手に入れて、「太郎庵」という庵号を用いることになった太郎庵が、不要になった元の庵号を同門の帰入に譲ったという事でしょう。
ごくわずかに手造の陶器・茶器が残されおり、極めて珍しいモノです。
草結庵のナゾ
過去にアップした記事でも述べていますが…「草結庵」という茶室が現存します。
まあ内容をコピペしてもツマランので、さらに深堀できんかな~と、思いましたが…2020年のころとは状況が変わり、どうも「草結庵は太郎庵の好み」という情報はコソコソっと修正されつつあるようです。(「文化財ナビ愛知:草結庵」でも、「太郎庵の好み」の記述は削除されております。前はあったと思うけどなぁ…担当者さん、僕の昔の記事を読んで消したのでしょうか…?)
- 高田太郎庵の没年【宝暦13年(1763)】
- 長栄寺に草結庵が創建されたと伝わる年【天明年間(1781-1789)】
- 若山帰入の没年【寛政元年(1789)】
これらを勘案すれば、「現存の草結庵は太郎庵が好んだ」とするのは、結構無理があるんですよね…。
「尾張の茶道」の中の「尾張の茶室:太郎庵の遺構」において、中村昌生氏はこうも言及しています。
草結庵は三畳台目に二枚襖で隔てられた相伴席を伴い、明らかに織部好みの燕庵形式を基にした茶室である。点前座を落天井とし、中柱の袖壁と続きの壁面の構成を改めて、利休流の台目構えを導入した点(※)に、燕庵形式との顕著な相違が認められる程度である。そこに千家の茶を学んだ太郎庵の作意が示されているともとれるのである。
(中略)
さてここで思い起こされるのは岡谷氏邸にあった一笑庵のことである。(中略)岡谷家の書付には「享保十二年丁未太郎庵四十二才ノ年古渡橋ノ閑居ニウツス文政十年子初夏鉄砲町本宅ニ移り 大正元年現地ニウツス」とあった。この茶室は躙口と矩折りに貴人口を備えていたが、他は燕庵形式と変わりなかった。そこで考えうることは、古渡の住居にこの茶室があったとすれば、ほとんど同じ形式の草結庵をここに建てたとは思えないから、やはり太郎庵を名乗る前の草結庵時代の茶室とするべきであろう。わざわざ茶室を入手する程関心の深かった織部の燕庵形式に基づいて、幾らか工夫を加えて建てたのかも知れなかった。
岡谷家に伝わった「一笑庵(戦災で焼失)」はもともと京都にあった織部好みと伝わる茶室で、それは太郎庵が晩年に隠棲した古渡橋にあった閑居に移したものでもあり、これも燕庵形式の茶室ということは…「同じような茶室を2つも太郎庵が作るかね?」という素朴な疑問です。
「享保十二年、太郎庵、42歳の年に古渡橋の閑居に移す」という、岡谷家の書付を信頼すれば…つまり一笑庵が移築されたのは享保6年に鈍太郎をゲットして「太郎庵」を名乗って以降の話です。翻って「太郎庵の好んだ草結庵時代の茶室」とは、また別の茶室だったのではないか…?という想像ですよね。まあ、古渡に1個あれば事足りるし、わざわざ別の場所で、同じような茶室を作る理由はなさそう…?
中村昌生氏は前向きに解釈して…
現在の草結庵は、太郎庵が古渡の住居に移し建てた織部の茶室をもとに、太郎庵を慕う人が前に述べたような作意(※)を加えて写し建て、それを太郎庵の好みとして伝え、草結庵の額を付したと考えることもできる。
何れにしても太郎庵の茶室に燕庵形式との関わりがあったことは確かであろう。
僕もおおむね、こういう理解でいます。というか、そうとしか言えない。
この【太郎庵を慕う人】こそが、若山帰入だったのではないか?という推測を立てておりますが…現状、何一つ根拠のない話であります。
帰入の『無類の数寄者』という評を考慮すれば、晩年、太郎庵に習って燕庵形式の茶室を建て、太郎庵から譲り受けた「草結庵」の庵号を用いたのでしょう。太郎庵が隠棲した古渡の茶室を、直に訪れて「これは良いなぁ、マネしよ」と思うには、それなりに太郎庵との近しい関係でないと難しいでしょうからねぇ。不及斎の同門である帰入は、太郎庵と親しい関係性にあったと想像できます。
もう少し、この若山帰入という茶人が深堀出来れば、草結庵のお話もしやすいのでしょうけどね~。いかんせん残されてる所縁の道具も少ないし…。
帰入という人が良く分かんないから「太郎庵」の名前だけが喧伝されちゃった感がすごーくあります。でもまあ、「太郎庵の好み」という話も、大きく間違っているわけでもなさそうだし、この辺りをきちんと丁寧に説明するべきだと思いますけどね…。


