尾張茶人名鑑:千村伯就

過去の勉強部屋の《書き直し》です。
ところどころ内容は共通していますが、新たに書き直しています。
『曲全斎門下の一大巨壁なり』
千村伯就は江戸中期の尾張藩士です。尾張の茶人・河村曲全の門下として茶を学び、「尾州千家茶道之記」には
川村曲全斎門人にして終始数寄をかえず。曲全斎門下の一大巨壁なり。
と、著者の大橋遅松からは敬意をもって伝えられている茶人です。
享保12年(1727)、尾張藩士・千村良重(夢沢)の長男として生まれますが、父は井出氏の家を継いで井出姓を称していたため(のちに千村姓に復帰)、本家(千村家)の祖父に養われ、千村姓を称して後に家督を継ぎます。
尾張藩士として8代藩主・宗勝の小姓となり、延享4年(1747)までの5年間近侍。宝暦年中(1751-64)には江戸に赴任、安永5年(1776)に職を辞しています。
伯就は父(夢沢)が京都・伏見屋敷に勤めていた幼少のころから筆を執り、後に漢詩を石島筑波、松本君山らに学び、「鵞湖」と号して優れた漢詩人、書家としての才能を発揮していたと伝わります。(父である千村夢沢も漢詩集を著作する教養人であり、横井也有などの文人と親しく交わった文化サロンの一員でした)
また明和9年(1772)には僧・月僊と出会い、月僊から山水などの画法を学び、また伯就が漢詩を教えるという間柄になります(自適園集「送月仙上人之京師小松谷序」)。このような経緯から、伯就の自画賛の作品も比較的伝世しております。絵の方は「アマチュア」の域を出ないものの…素朴で味のある山水画を描いています。
茶人・伯就
伯就がいつから茶の湯を始めたのかは判然としませんが、上記にもあるように河村曲全に師事して、茶の湯を学んでいました。
当時、尾張藩には「御数寄屋」などの茶の湯を統括する部署があり、そこでは織部流や有楽流といった武家の茶の湯が伝えられていたはずですが、藩士の中にもこうして市井の庶民と交流し、千家流の茶の湯を学んでいた人も複数人いたようです。
大抵、武士で茶の湯を嗜む場合は遠州流や石州流など、【武家茶道の流派】が多かったと推察しますが…尾張では「武家と商家」で別れず、微妙に混じり合っているのが名古屋城下町の独特の風土と言えるかもしれません。
職を辞してからは、書・画・茶の湯と風雅を楽しみ、自邸である自適園には雅客が絶えず訪れていたと言われます。恐らく茶の湯三昧だったと思われ、自作の茶碗や茶器、茶杓なども残っております。
晩年の曲全に師事した大橋遅松(1696年生)からすれば、自分よりはるかに年下の伯就(1727年生)といえども茶の湯の先輩にあたり、「一大巨壁」という表現は、茶の湯にとどまらず、漢詩、書画など幅広い分野に長けた文化人として、遅松の敬服ぶりを表しているのでしょう。
さらに伯就よりも後の世代の尾張の茶人たち(平沢九朗や平尾数也)による書付が添う茶器も伝わっており、地元・尾張の先達茶人として憧憬されていたことが窺えます。

