【予告編】海を渡る瀬戸染付

第2回ッ 海老屋十軒店に関連した「勉強部屋」をアップする予定です。

もう少しだけお待ちください

9日より、日本橋店舗(海老屋美術店)、インスタ、ヤフオクで始まった「海老屋十軒店」。さっそく店頭に足を運んでいただき、ありがとうございます。

インスタにアップする前に商品が売れちゃう…という、うれしい状況にやや焦っております。

本当はもうちょっと準備に時間をかけるつもりだったのですが…お問い合わせがあったりしたので、先行的に『予告編』と題してザクっと情報だけ上げておきます。

輸出向け磁器を作った窯

瀬戸では江戸後期より「染付磁器」の生産が盛んになり、幕末~明治には「海外輸出向け」の生産を画策する動きがあちこちで始まります。

その中でも「森村組(現在のノリタケ)」と専属契約を結び、米国・英国に向けた製品を作っていた瀬戸の窯屋がいくつかありました。今回の海老屋十軒店では、その典型的な2つの窯で作られた品物を主に出品しております…。

陶玉園 五助

加藤五助(1839 – 1905)

幕末-明治時代の瀬戸・南新谷の窯元。

三代五助の長男として生まれ、文久3年(1863)に家業を継承。磁器の改良に熱心で、常に素地の精選、釉薬の研究、図案・意匠に心を注ぎ、実用厚手平奈良茶碗を世に広めている。また白磁・青磁の釉薬の上に白盛の浮上模様を描くことを創案するとともに、石膏型導入に尽力、輸出品見本数種を試作している。

明治7年(1874)に京都の三井組に輸出用コーヒー碗を持ち込むなど、瀬戸で最も早い時期から輸出用食器の生産にも着手していた、海外向け高級食器の先駆者でもある。内外の博覧会でも常に高い評価を受けていた。

明治31年(1898)に隠居、「陶玉」と号した。

白雲堂 周兵衛

加藤周兵衛(1848 – 1903)

明治時代の瀬戸・南新谷の窯元。

初代周兵衛の長男として産まれ、明治10年(1877)に家業を継ぎ、二代目周兵衛を名乗る。

父に劣らず、もっぱら輸入品に重きを置き、精力的にその業務に励んだ。

明治27年(1894)4月、主要輸出品目五品(織物・陶器・銅器・漆器・紙)について「五品会」という産業団体が結成(後に2品目追加して、「五二会」と改称)、瀬戸でも五二会瀬戸支部が結成され、支部長の川本桝吉をはじめ、周兵衛も理事についている。明治30年(1897)には加藤杢左エ門、加藤光太郎、加藤利作らと共に陶器貿易会社を設立。周兵衛が輸出振興、産業発展を目指して活動を展開していたことが窺える。

周兵衛の作品は森村組(後の日本陶器)の創始者である森村市左衛門、大倉孫兵衛の評価を受け、森村組を窓口にして、英国・米国を中心に輸出され、広く海外へその名を広めた。

経営の規模も初代の比より拡大し、明治28年(1895)には登り窯、丸窯二基を有し、職工43名を従えるまでになっている。明治38年(1905)には職工90名を従えるまでになり、瀬戸における大製造家として発展していくが、その最中の明治35年(1903)に二代周兵衛は心臓麻痺で急死しており、二代目亡き後は婦人の下で盛んに操業が続けられたが、種々の事情によって大正6年(1917)に廃業している。

もうしばし、お待ちをッ!

「インターネットで調べられる」情報源として、やや心もとないですが…取り急ぎ、アップしておきます。

まだまだ海老屋十軒店は続きますので、引き続きよろしくお願いいたします!

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