よい「景色」はどこにある?
なんだかよくわからんことを、自分なりに色々考えてみる実験です。
「茶入の良さってなんだろな?」→「景色のある茶入がいいよね」→「景色って何やねん」
という感じで、いろいろ考えを巡らせてみます。
そもそも言語化が困難な「景色」
やきものの表面を覆う釉薬が高温で溶けて流れた跡や、窯の中で焦げたり、あるいは土に含まれる成分と釉薬が反応して色が変化したり、様々な要因で現れた模様や色の変化を指して「景色」と呼びます。
と、以前に「景色」の説明はしましたが…。
「何が」「どうなっていれば」「どういう景色になる」といった、いわゆる「定量的な評価」による「景色の説明」は極めて困難です。
だいたい「美」というものに定量的な評価をしようとすること自体、極めて困難な話です。
結局は「個人の好みに帰結する」みたいな言葉でお茶を濁すか、より哲学的な話にメリメリと深く掘っていくしかないのですが…。
それじゃあ面白くないので、何とか頑張って伝えてみようと思います。
難しい話を簡単にしようとすると、かえって難しくなる
ここで一つ簡単な思考実験です。仮に「完璧に美しい景色が説明できる」と、しましょう。
それを知っていれば…誰が見ても完璧に美しい茶入を造ろうとしますよね。
でも、そんなものは現実世界に存在しません。
逆説的に「完璧に美しい景色」の説明は無理なのです…。
説明できないのに確かに存在する「景色」とは?
言葉で説明できないのに、概念として存在し、人々が確かに感じる「景色」がある。
不思議に思いませんか?
一見、パラドックスのように思うのですが、実はそうでもない…。
何気ない日常の一部にも、この「景色のようなモノ」を読み取る瞬間があるんです…。
例えば、空に浮かぶ「雲」を見て『シュークリームみたいで美味しそうだな』とか。
例えば、歩道の脇にある「排水溝の蓋」を見て『笑ってる人の顔みたいだな』とか。
雲は食べ物じゃないし、排水溝の蓋にいたっては無機物です。それぞれに相互で関係性は全くありません。表現の構造としては比喩ですが、これは「誰かに向けた表現」ではなく、「勝手な自分の中の心の動き」です。何かを見て、何かを感じる。これは特に理由も必要なく、「一人」で完結できることです。
しかしコミュニケーションとなると、一人では完結できません。相手に何かを伝えるとき、自分の思っていること、感じていることを100%すべて余すことなく、そっくりそのまま伝えることは難しいですよね。
自分以外の誰かが、同じ雲を見ても「シュークリームみたい」と感じるかどうかは分かりません。排水溝の蓋に至っては「これは排水溝の蓋以外、何物でもないじゃないか」と、何一つ感じないかもしれません。
「景色」の言語化の難しさとは、こういうことだろうなぁ…と僕は感じます。
景色は自分だけのモノ?
誤解を恐れずに言えば…「景色とは自分ひとりにしか認知できないモノ」なのです。
視覚情報として伝わる形・色・模様や、触覚として伝わる肌触り。これらは有形のモノなので、誰にとっても「同質」なのに、これらを通して感じる「何か」は人によって少しずつ違う。
「何か」では、趣がないので「景色」と言い換えたのです。
どうしても「景色」という言葉の意味に引っ張られて、山や川の風景だったり、花や鳥といった意匠をイメージしてしまいがちですが…そんな単純なモノではないです。中には単純なモノもあるでしょうが。
伝えるために工夫する
景色を感じることは、誰にでもできる。ただしそれが「誰が見ても同じ景色か」というと、そうとは限らない。
見て、触って、感じたことを「景色」と称したはいいが、これを別の誰かに伝えるのは至難の業。
だからいろいろ工夫を凝らすのです。これが茶の湯の醍醐味ともいえるでしょう。
『形に添った「定型のお作法を披露しあう」のがお茶ではない。茶の湯とは「道具を介したコミュニケーション」である。』
というような話を、どこかで聞いたことがあるかもしれませんね。
ただ茶入を一つ見ただけでは、感じる景色は人によってバラバラかもしれません。でも茶の湯の「取り合わせの一部」として組み込むことで、この茶入の景色、見え方・感じ方というのは、ある程度の方向付けができます。「主人」と「客」で見える景色を完全一致とまではいかなくとも、双方から限りなく寄せることができるのです。
茶道具のすごいところは、こうして「組み合わせる」ことで、道具単体よりも面白みが出現したりすることです。
それもこれも、「伝えにくい美しさを伝えよう」と工夫することが始まりなんだと思いますね。
「美しいなあ」と感じたことを、別の誰かに感じてもらいたい。気持ちを共有したい。これはいつの時代も繰り返されてきたことなんでしょう。
そのために様々な工夫を凝らす。茶の湯は幸い、茶入以外にもいろんな道具を使いますから、工夫の余地はいっぱいあります。
その中で「茶入」は道具の中でも一番メインの「お茶を入れる器」として目立ち、お客の眼に一番触れます。その道具で「景色がある」と感じやすい茶入であれば、やはり価値が高まるでしょう。伝えにくくとも、少しでも分かりやすいモノがいいでしょう?それが色であるのか、模様であるのか、形であるのか…要素は様々ですけれど。
銘の話はまた別にしよう…
「景色を伝えるための工夫」の一つとして、『銘』もその工夫の一つです。
が、ここでは銘の話はしません。これはこれで…またこんがらがった、ややこしい話になるので(苦笑)
でも一つの「景色を理解する訓練」として、最近いいなあと思っているのは…「道具に自分で銘を付ける」ということです。
別にこれは誰に発表するでもなく、自分で勝手に「心の中で思えばいい」だけなので、簡単です。正解も不正解もありません。
「この道具に銘を付けるなら、どんな銘かな?」という自問をする。すると見方が少し変わるでしょう。銘の付け方にもいろんな考え方があるので、ここでは割愛しますけれど…最初はそんなに難しく考えなくてもよいと思います。
「景色って何なの?よく解らないよ」という人でも、ちょびっと景色が見えてくるでしょう。
どんなモノにも、あなたに見える景色があるはずなのです。まずは自問することで、その取っ掛かりを探してみましょう。