尾張茶人名鑑:町田秋波

過去の勉強部屋の《書き直し》です。
ところどころ内容は共通していますが、新たに書き直しています。
尾張出張教授
町田秋波は江戸前~中期の茶人です。「尾張茶人名鑑」ですが…この人は京都の人です。
彦根藩士の玉縄孫兵衛という人の弟で、兄に子が無い場合の嗣子の予定でしたが、兄に実子が生まれたため、家督は継がずに京へ上り、久田宗全(久田家3代)の門人となりました。
その後、良休(宗全の実弟、表千家5代家元・随流斎)や原叟(宗全の長男、表千家6代・覚々斎)を支え、晩年は尾張への出張教授として原叟の命を受けて尾張へ下向。
「尾州千家茶道之記」には
この年を聞き置かずして残念なり。今となってはいつとも考え難し。但し秋波が尾州へ下向有って三年目ばかりの、享保八癸卯年(1723)に卒去なり。然らば下向は享保5年(1720)か6年かの間なるべし。
という注釈が入っており、いつから尾張に下向したかは判然としません。凡そ、これぐらいの年代なのでしょう。
これよりも前から京へ上って、千家の家元に稽古をつけてもらっていた商家の旦那衆はもとより、さらに多くの町衆の間に茶の湯を学ぶ機会が広がり、茶の湯の文化の熱が尾張でどんどん高まっていったことは、想像に難くありません。
茶家・町田家の初代
秋波には後継ぎがいなかったため、岐阜県本巣郡芝原の出身で、茶道を好んで京に上り、松尾宗二・宗五の門で学んだ円斎(一筵斎)という茶人が、秋波の歿後、町田家の跡を継ぎました。ここから茶家・町田家が始まり、江戸期の数代に渡って茶人を輩出する家になります。
円斎は如心斎に仕え、あるとき町田家の後継ぎとして円斎に「秋波」の名前を襲名させようと相談があった時、師である如心斎は「秋波は我等家において大功の者なり。秋波と称しては我が弟子の列に仕え難く、町田と名乗らせ秋波は無用の由」と申されたと「尾州千家茶道之記」に記されております。それだけ、町田家の初代である秋波の存在を重く考えていたことが窺えます。
恐らく秋波が「当時の千家の長老(良休の実兄・原叟の父)として強い影響力を持った久田宗全の門下」として茶人としてのキャリアをスタートしていることが重要で、極めて茶の湯の見識が深かった人物だと思われます。それゆえに原叟も「尾州は大藩にて諸流多しと聞く。懇ろの器量の者を遣わさねば益あるまじ」と、尾張の出張教授に町田秋波を指名したのでしょう。
秋波は尾張の茶人・河村曲全と特別に懇意な関係で、秋波の歿後も手紙のやり取りが曲全とは続いていたと「尾州千家茶道之記」で大橋遅松が伝えています。
秋波の歿後も、京からは松尾宗二が派遣され、享保9年(1724)に初めて尾張に下向、引き続き千家の指導者が尾張に出向いて稽古をしてくれる体制が続くことになります。

