尾張茶人名鑑:心空庵吉章(及々斎)

アートフェアの会期に間に合いませんでしたが…続々、アップします。
もうちょっと、ボリュームを出したいのですが、いかんせん時間に追われ…めちゃんこ、やっつけ仕事です。
後々になってから、加筆修正するつもりですが…やらんかも(苦笑)
尾張藩御数寄屋頭
子日庵につづいて、今回紹介するのも尾張藩士です。
ただ同じ尾張藩士でも、ちょっと子日庵とは立場が違う。
「平尾数也(ひらお すうや)・心空庵吉章」は、見出しの通り「尾張藩御数寄屋頭(おわりはん・おんすきや・かしら)」という立場にまでなった人。
剃髪していますが、身分は武士で、いわゆる「茶坊主」と言われる人です。
「数寄屋(すきや)」と聞くと、現在では「甘辛く味付けした牛肉と玉葱を…」じゃ、なくて…
「数寄屋」と聞くと、現在では「茶の湯などを行うための空間・設えを行う部屋を備えた建築物」としての意味が一般的ですが、この場合は違います。「藩の役職の名前」としての「御数寄屋」であり、この役職はもとは「御茶道・御茶道方」とも呼ばれていたことからも分かるように、茶の湯の専門的な指導者・責任者としての役割がありました。
藩として、様々な「上使(幕府や大名、あるいは朝廷の意を伝える使者)」を迎える際、茶の湯をもって接待することが度々あるのです。この際、給仕として側に仕える人間は、茶の湯の礼儀作法を身に着けていないと、相手に礼を欠くことになるため(万が一にも、失礼があっては腹を切ることに…?)、藩として「数寄屋(茶の湯)に関する」専門部署が作られたわけです。
単に茶の湯の点前ができる、給仕の立ち居振る舞いが整っている、というだけでなく…茶の湯を行うための実践的かつ総合的な教養・知識(茶道具・歴史・和漢の文学・時候・建築・作庭など)を備えた人材を、藩として育成していたのです。「御数寄屋頭」とは、その部署の頭(かしら)、つまりリーダーです。町方で広がった千家茶道の家元制度における「家元」とは、そもそもの成り立ちが違い、性質もまるで異なっていたと想像されますが…幕藩体制の崩壊によって、この御数寄屋という組織も現在は当然残っておらず、その実態は詳しくは分かっていません。
(※現代、有楽流を称する茶道流派と、尾張藩にどういう関係があるのかは、各流派の方々にお尋ねください。僕はよく知りません。)
現在は「茶坊主」と聞くと、「権力者におもねる者をののしっていう語」という理解がされますが…その特殊な専門知識によって藩に仕えていたという性質上、(知識のない人・分からない人は言い返せない、ような)周りに絶対的な支配力を持つ構造になりやすく、それが「権力者の威を借りて威張っている」ように見られたことが原因だと思われます。(実際、そういう横柄な茶坊主もいたのかもしれませんが…)
数也のルビ
平尾数也は、代々が「数也(すうや)」を襲名してきた家で、心空庵吉章は平尾家の6代目です。
もともとは中国大陸・明から亡命し、日本に帰化した「曹数也」の末裔で、尾張藩主から「松平の(平)」と「尾張の(尾)」を1文字ずつとって、「平尾」の性を賜ったと伝わります。
ちなみにこの「平尾数也」をネットで調べると…「数也(かずや)」とルビが振ってあるページが複数ヒットします…。
名美アートフェア2026の会場でも、少数のお客様から「かずやって、読み仮名振ってあるのを見たことあるけど…どっちが正しいの?」と質問を受けましてね…。
僕は父親や業界関係者から「数也(すうや)」という読みを教わって、それをそのまま鵜呑みにしていました…。「すうや」の読みに根拠があるのか?と言われると、正直たじろいでしまうのですが…(かずやの方も、根拠があるのか知らんけど…)。
現代的な感覚だと「数也」は「かずや」とは、読めちゃいますわな。ただ、中国・明からの帰化人という出自から考えて、「音読み」での「數(スウ)也(ヤ)」の方が適切だと思うんですよね。根拠ないけど…。あとは『江戸に頃に名前に濁音が入るのはありえん』とか言いますけど…実際、どうなんでしょうね?それもコミで「数(かず)也(や)」には違和感が…。何にせよ、口語で話すときは「すうや」で説明するのが、一番通りがいいはずです。「平尾かずや」と言われても、誰のこっちゃ?となる人が出てくると思います。
まあ、読みの話はちょっと置いといて…。
「茶道別格の功者」
この六代数也こと、心空庵吉章も、歴代平尾家の跡を継いで、寛政元年より尾張藩に仕えます。
そして順調にステップを踏んで昇進し、文化3年には御数寄屋頭に任ぜられ、文政6年には「茶道格別の功者」と称えられ、徒格以上となり、尾張藩から功績が評価されています。藩における茶の湯の指導者として、極めて貢献が大きかったことが想像されます。
上でも述べましたが、千家の家元とは、そもそもの成り立ちが全然違うので、茶の湯の指導者と言っても、微妙にその性質も違っていたと思います。身分も「武士」ですしね。
ただ、当時の尾張藩士で茶人でもある平沢九朗の茶会記に、客として平尾数也の名前が出てきたり、また心空庵の書付のある茶道具がいくつか伝世していることなどからも、茶人・心空庵としてはなかなか活発な活動をしていた様子が、断片的に分かります。
尾張藩の御数寄屋頭にまでなった、「茶道別格の功者」ですから、さぞかし茶の湯に関する幅広い知識を持った、教養人だったのだろうと想像します。

