いい道具って何だろう?

いつもの「勉強部屋」カテゴリではありません。

最近すっかり持て余している「日々色々」カテゴリを、もうちょっと活用しようという…なんかパッと浮かんだ思い付きです。

ホームページ立ち上げ当初は、ちょこちょこ日常的な投稿をしておったのですが…なんやら、いろいろ面倒くさくなって、すっかり勉強部屋ばっかり(そして道草食ってばっかり)になってしまいました。

コロナ禍を挟んだので、「日々特に何もねぇよもう勉強するしかねぇよ」みたいな状況が間にあったとはいえ…ねえ。

「美術」に関する日々の思いを書き綴ろう

で、最近いろいろ思うところがあって…

「もう先のこと考えず、思い付きをどんどんブログに書いちゃおう」と、決めました。

勉強部屋は相当に推敲を重ねて、いろいろ直しながら書いているのですが…。

「日々色々」カテゴリでは、思い付きの記事をパーっと上げちゃおう、と。どうも、改まり過ぎて、記事を上げにくくなってる感がすごいあったので…。

最近思うこと…「いい道具って何?」

では早速…思いついたことを、取り留めもなく書き綴り始めます。

割と最近、「祖母懐のネタ」でちょっとした記事を上げましたが…それ以来、少しばかり気になったというか、疑問を抱いたことがありまして…。

「茶入の良さってなんだろうな…?」と。

道具を取り巻く、いろんな『価値基準』

お茶を嗜む方なら、茶道具としての茶入の格の高さとか、非常に高価なモノであるとか、その尊重され具合は、人によって程度の違いこそあれ…なんとなーく分かるかと思います。

『かつては茶入一つに、一国一城に匹敵するほど価値があった』

とか、そんな話をどこかで聞いたことがあるかもしれませんね。

でも実際のところ…『何がいい茶入か』って皆さん考えた事、ありますか…?

「どうして茶入がそんなに高いの?」という捉え方だと、ついつい「茶入を取り巻く、周辺のお話」で茶入を語ってしまいがちです。

ザックリと云うと「戦国時代、武士は褒美として領地・城を与えられるのと同等に茶入を褒美としてもらっていた」とか「舶来の茶器は極めて数が少なく、尊重されたから」とか、そういう話でお茶を濁しがち。

歴史的な茶入の位置づけとか、道具としての成り立ち、時代の変遷とともに変わる威信財としての需要などなど…道具にまつわるバックボーンとなる知識を得ることは大切なので、これはこれで悪い事ではないんですけど。

あるいは茶入につけられた「銘」であるとか、その銘を認めたのが「有名な茶人による箱書」であるとか、「旧家の伝来品である」とか、そういう情報も、茶入の価値を大きく左右する要素でしょう。

銘や箱書に価値を見出すことも、決して間違いでもありません。茶入はそもそもが「茶席を構成する一つの道具」であり、他の道具と組み合わせて使うことが前提・必然です。ゆえに銘や箱書なども「取り合わせ」に深く関わってくる要素です。茶道具としては、ここが一番大事だとも言えます。

どんな人の手を経て、今に伝わってきたかという、伝来を尊重して、昔に想いを寄せるのも素敵な事です。道具が愛玩されてきたこと、またその価値の確かさを担保する、一定の役割も無視できません。

ただ…ものの良さを、外側で判断しちゃうのは、どうなんだろう?という思いもあります。

茶入そのものと向き合おう

これは自分自身が「祖母懐土だ」「御深井の茶入だ」なんて話をしている内に、ふと思った事なのです。

これもいわば『茶入の外側の話』だな…『中身』について自分はどこまで見れているかな、って。

祖母懐だったら、何でも「いいモノ」なのかというと、違う。御深井なら全部がいい名品なのかというと、そうとも限らない。

「よい茶入って、どんな茶入か?」ってことを、自分なりにいろいろ考えよう…。

これはハッキリと答えがある話じゃないんですよね。常に考え続けなきゃいけない話。

道具である以上、美術品である以上、それぞれ唯一無二ではあるけれど、それぞれ確かに優劣はある。「外側」だけで判断せず、「中身」を見て分かるのか、否か…。(決して、外側の情報でする判断がダメという話ではないですよ。これを否定するわけじゃないです。)

「いい道具」っていうのは、結局のところ自分の中で「何を基準にするのか」っていう、比較・取捨選択の話になるわけです。

茶入ってその基準が結構難しいなあ…って、改めてボンヤリと思った…ということです。

つくづく茶道具は奥の深い世界ですね。

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