前田壽仙堂

尾張町方の状況

尾張藩では有楽流の茶が行われてきた一方、町方はどうであったか。京や江戸に遅れを取りながらも、武家の茶とは違う流れが名古屋の町では展開されます。

まずは茶の湯の萌芽が訪れる「前の段階」の予備知識として、歴史と経済のお勉強です。

萌芽の遅れ

遠州さんに「田舎ねぇ」なーんて言われちゃった名古屋ですが…実際、茶の湯の萌芽は遅れていたと見ていいように思います。

現代でもいえることですが…茶の湯に限らず、文化が花開く下地として、生活(金と時間)に余裕がないとなかなか難しいものでしょう。(景気良くならないかなぁ)

そしてこの茶の湯の萌芽の遅れは、尾張藩の財政が逼迫し、それに応じて藩領内の景気も芳しくなかったのが、一つの要因と考えられます。

尾張の困窮っぷり

尾藩史余禄(著:岡本柳英)」に、尾張藩の財政の様子が解説してあります。ここに茶の湯の萌芽が遅れたワケが間接的に示されています。

初代・義直のころから、すでに財政窮乏の兆しが見えていたようで、税制の見直しなどで何とか切り抜けていたようです。2代・光友のころになると、藩士の生活に困窮の兆しが見え始め、藩からの借金返済の期限を延期するなど、苦しい台所事情が垣間見えます。また様々な奉行所や評定所の設置、横須賀御殿の造営、濠へ水を通す御用水の土木事業など、都市の整備にもお金が掛かっており、財政は逼迫していきます。

何より、光友時代は「大火(実に10回も)」「豪雨洪水」「地震」など、災害が非常に多かった時期でもあり、その復興のためお金が必要に・・・。こうして藩の財政の脆弱さが表面化していきます。

3代・綱誠はわずか7年の治世ですが、この間にも藩の財政は逼迫しております。元禄11年(1698)、時の将軍・綱吉が尾張にやってくることとなり、急遽、新館を造営して接待することとなったのですが…もう藩にはお金がない……。そこで、町方の農商階層からお金を集め、それで凌いでいます。こんな状況で武士が踏ん反り返ってるわけにもいかず、当然藩は倹約令を出し、藩士は使用人を減ずるように命じられ、さらに借金も早く返せと迫ります。

4代・吉通時代も芳しくない様子。元禄13年(1700)に名古屋で大火があり、1600戸が焼ける悲惨な災害だった模様。藩は罹災者に間口一間を単位として、金一分ずつを支給しています。また藩士も辛い時代だったようで、藩老である成瀬隼人正正輝は家臣一同に対し、百石に五石ずつの救済を決め、自分の馬の持ち数を半分に減らす決断をしているそうです。

こんな困窮の時代、日本を巻き込む天災が発生。宝永4年(1707)の富士山大噴火です。広範囲にわたって降灰の被害があり、幕府は全国諸藩から除灰金として税金を課します。これがまた尾張藩の財政を苦しめていきます・・・。

江戸前半の茶道史がすっぽり抜けてるワケ

・・・と、こんな感じで、尾張藩(名古屋)は低空飛行を続けていくのですねー。まあそれなりの事情もあって、やむを得ない感じではあるんですが・・・。

京・江戸では、華やかな町人文化が花開き、後に「元禄文化」なんていわれる時代ですけれど、どうも尾張はその流れに取り残されてる印象を受けます(あくまで藩の財政状況からの視点で、ですが)。藩が金に困り、課税や借銭を繰り返していれば、おのずと町衆も

「質素に暮らして、金を貯めとかなイカンわ……」

と財布の紐も硬くなり、経済活動は停滞したのでしょう。そりゃ町方では文化の萌芽も難しかったのかなあ、と感じます。

町が元気になれば、文化活動も活発に?

吉通は25歳の若さで亡くなり、5代・五平太は継承後2ヶ月で死去、6代・継友の治世でも、相変わらず「倹約令」が発せられています。正徳4年(1714)、藩領内の豪農に献金を命じ、さらに市中の富豪にも献金を命じています。当時は全国的に物価が高く、特に名古屋は悲惨で、薄給の藩士藩民の窮乏は甚だしかったようです。

享保7年(1716)には藩領内へ貸し付けていた元金を強行回収。引き締め政策を敢行したことで「継友は金を貯めるのが趣味のドケチ」と、町の評判は最悪に・・・。一方で、役職の整理や給与の見直しなどが功を奏し、藩財政は改善されていきます。また城下町人口も7万人を超え、江戸から三井家越後屋が再び出店するなど、名古屋の町方に活況の兆しが見え始めます。

錦通(呉服町通)にある 「ポスト宗春」の案内板

そして享保15年(1730)に7代・宗春の治世を迎えます。この宗春は功罪両面で評価が著しく分かれている人物なのですが、町方衆からすれば「幕府の緊縮財政に反発し、自由放任主義で圧政から解放してくれた」という点で、名古屋に活況をもたらした革新的な人物とされます。一方で改善の兆しが見られた藩の財政を、奔放な政治によって再び藩の財政を赤字にしてしまった人だとも言われています(これは主に保守的な藩内部の見方でしょうね)。

宗春は「温知政要」という、現在で言うマニフェストのような書物を刊行し、幕府の緊縮財政と干渉主義を批判。使った銭は消えてなくなるわけではない、天下をまわって、それがみんなの生活を豊かにしていくのだ、という信念の下、身の丈にあった消費を促します。自身は派手な衣装で練り歩いたり、祭りや芸事を推奨し、名古屋城下郊外に芝居小屋や遊郭等の遊興施設を許可するなど、民の楽しみを第一に様々な緩和政策を進め、これが町の人々に受け入れられていきます。

「名古屋の繁盛に興(京)がさめた」といわれるほど、名古屋の発展は著しかったようです。

それまで萎縮しきっていた経済が、ちょっとしたきっかけで一気に繁栄、といった雰囲気を感じますねー。また「享保の改革」により、全国的に質素倹約が推奨された時代のなかにあって、唯一尾張だけが自由な気風にあふれ、人が集まり、経済が回り、この地における商いが急激に発展・好循環を生んだ、という見方もできるでしょうか。

町方茶道の萌芽

さて、この宗春の治世となる前後で、名古屋の町方に茶人がゾロゾロと出現するのです。これまで何にも無かった尾張の茶道史のなかで、ココだけちょっと異質な時代です。ようやっと、尾張でも茶の湯の萌芽が始まります(というよりも、宗春の促成栽培で一気に芽吹いて花咲いた感じでしょうか?)。この茶人の出現時期と、尾張の財政転換の時期の絶妙なリンク…「経済と文化は密接な関係にある」と言わざるを得ません。

尾張藩の財政の話はとりあえずここまで、次回からこの時期に出現した尾張の茶人シリーズ、始まります。

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