前田壽仙堂

尾張の町方-尾州千家茶道之記

これで一区切り。最後は尾張の町方茶道の萌芽~隆盛を紡いだ「尾州千家茶道之記」を残した、大橋遅松について。

Next Generation

中島宗円(宗員)伊藤道幽岡田野水らによって尾張町方にもたらされた「師伝正しき」茶の湯。

そして河村曲全高田太郎庵らの登場と、町田秋波、松尾宗二らの出張稽古によって尾張に花開いた町方茶道。

尾張における茶道隆盛の真っ只中、成長していったのが大橋伝蔵こと、遅松なのです。

廻船問屋を営む「千竹屋」に生まれた伝蔵。すでに周りの商家の旦那衆の間で茶道が流行しはじめ、自身も若いころに少し茶道をかじっていたようです。ただ仕事が忙しく、茶道に費やす時間もそれほど無かったため、一時は全く稽古もしてなかったといいます。

近所には河村曲全が住んでおり、享保17年(1732)、曲全の元へ茶道の指南を頼んだところ、快く受け入れてくれました。以来、曲全の元へ足繁く通っては、茶の稽古に道具の目利きなど、様々な教えを受けることになります。

十数年の間、曲全からの教えを受けた遅松は、曲全に「私の元でしっかり稽古をしたのであれば、千家の直門としても、京で稽古をうけてみてはどうか」と勧められ、表千家如心斎に入門することを決意します。延享4年(1747)、薬を手に入れるため、病気の妻を連れて京へ行く必要があり、これを期に千家へ出向いて稽古をつけてもらおうと、如心斎の元を訪れました。

千家直門になりたかった…が

しかし如心斎は病床に伏せており、稽古もろくにできない様子でした。「せっかく京へきたのだから、千家の茶会の一つにでも参加したい」と、今度は宗室(裏千家)を訪ねますが、宗室も病気に伏せており、風炉の道具もいまだ出さずといった状況。近日のうちに茶会を設けるので、案内しますと約束を取り付けるが、中々沙汰はなし。旧暦5月15日の出来事なので、まさに夏真っ盛りの時期です。

結局、「6月25日に茶会を催します」と案内が来たものの、病人の妻を連れ添って長々と真夏の京に逗留することもできず、結局茶会の約束は果たせずに、帰名。

ちょっとタイミングが悪かった…ちょうどこの頃の千家はいろいろ大変な時期なのです。まず表千家では七事式制定後、如心斎は病床に倒れこの後(1751年)に亡くなり、嫡男の啐啄斎はまだ14歳。裏千家では泰叟宗室、竺叟宗乾と相次いで亡くなっており、竺叟の弟・一燈が若くして今日庵を継承し、まだ壮年のころ。武者小路千家では、延享2年(1745)に真伯宗守が亡くなり、養子として迎えた直斎は21歳で継承したばかり。

(ん、一燈はまだ若いし、元気じゃね…?明和8年(1772)まで生きてるし)

穿った見方をすると、やっかい払いの仮病の疑いをなんとなく抱いてしまいますが、現代とこの時代では、「夏」の状況が違います。

快適な住環境・豊かな食生活が送れる現代とは違い、蒸し暑い京都などでは、満足に栄養を取れず、疫病が度々流行しております。のような暑がりでウィルスに弱い、軟弱な現代人が、真夏の江戸時代にタイムスリップしたら、あっという間に弱って死んでしまうでしょう(苦笑)

まあ、仮病ということではなく、ガチで体調を崩していたと思われます。現に約束の茶会をやろう、と案内を出してるわけですしね。

結局、この翌年に妻が亡くなり、すでに息子娘たちにも先立たれていた遅松は悲嘆に暮れます。その間に如心斎もなくなり、遅松自身も年老いて歩行が不自由になり、上京も気軽にできなくなってしまい、結局茶の湯の本場・京でお茶を楽しむことはできませんでした。遅松は「尾州千家茶道之記」の中で、これを非常に残念そうに振り返っています。

「遺忘の為に少々書き記しおけるを今ここに記す。」

家族に先立たれ、師匠も亡くなり、京へ上ることもできず、すっかり意気消沈してしまった遅松ですが、名古屋の茶道界隈に対して「最近の若い奴らは」的な、危機感を覚えます。にわかに茶道の一派を立てちゃう奴があわられたり、「名古屋は昔から茶の湯が盛んな土地だでよぉ」とか、いい加減な事を吹かす輩が出現し、「おいおいお前ら」という場面に遭遇、もしくは見聞きしたのでしょう。

古希を迎え、足は不自由で活動に制限がありながら、時間をもてあます遅松は筆をとります。師である曲全から聞いた、尾張に花開いた茶道の流れを書物にまとめます。これが「尾州千家茶道之記」なのです。

尾張における茶道の流行、その副作用とでもいうべき、何かしら「乱れ」を感じ取ったのでしょうかね?以下、巻末の語りの一部を引用します。

今の尾州の如きは茶道の節目や作用は、京師や大阪にもいささかも劣るまじく侍るこそ、さすがに基本の正しきもみえて大幸なれ。それなのにここ十余年ばかりは色々の異議を立てて、新義を好める輩もあると見聞きすれば、此の行末はいかにあらんと思わるるなり。さしも故久田宗也老は謹厚篤実の茶人で、古法を少しも変ゆる事なく殊勝に在しとて、曲全斎や松尾宗二・同宗五などは毎度称美申されしが、其の子其の孫として異説を唱えらるることは如何にや。

これって、久田家が「高倉二条」と「両替町」の二つに分かれた時期の話なんでしょうね。うーん、僕は久田家についてまだまだ勉強不足、上手に解説できそうもないので、ここではちょっと省略させてください。ごめんなさい。(> <)

「此の行末はいかにあらん」

まあ久田家はともかくとして、茶道の人口が増え、いろんな人間が茶の湯の世界に関わりを持つようになり、いろんなことを考えたり、いろんな発言をする人間が増えてきて、この先の時代の茶道に「大丈夫か?」と、不安を抱いたのでしょう。

「偉大な先人たちのおかげで、尾張に茶の湯が根付いたということを、時が経っても忘れないでほしい」

そんな想いで書かれたのかな、という気がします。

ただし

この「尾州千家茶道之記」ですが、この内容自体を裏づける資料が不足しているのです。尾張藩、藩士のことであれば、当時の公的機関である「尾張徳川家」の資料が絶大な裏づけとなりえるのですが、町人たちのこと、さらに茶人に関することとなると、なかなか裏づけが難しい…。

茶人が書付をした「茶道具」であったり、あるいは「消息」という形で、茶人たちの交流が分かるような資料が現在に伝えられていれば、その歴史の補強ができるのですが。

遅松が曲全に師事していた手がかりとなる資料は残っていますが、やはりこの茶書に関しては、一個人・遅松だけの視点だけでは、「資料」としての力はやや弱いといわざるを得ません。(散々、「勉強部屋」と称して書いておいて今更何を言い出すんだ、という話ですけどね…)

それでも、膨大にまとめられた「尾張の茶人」や、その人たちのつながり、茶の湯の歴史を紡いで後世に伝えようという「熱意」は非常に伝わってきます。(なので、個人的にはこれに書かれてることは「大方合ってるだろう」という、希望的観測に基づいて書いてます)

これまで紹介してきた茶人たちは、比較的容易に実存の裏づけが確認できる範囲の人たちです。(伝来の道具や、書などが残されています)

紹介した人たち以外にも、たくさんの茶人がここに記されており、名古屋で茶の湯が流行し、たくさんの人たちが茶の湯を楽しんでいたんだろうと思われます。

遅松は今の時代を、今の名古屋を、今の茶道界隈を、どんな眼で見ているんでしょうかねぇ…。

おまけ

尾張の茶人シリーズのまとめ的な意味合いで、こんな年表を作ってみました。ささっと作ったので、誤植があるかも・・・。

こうして一覧表にしてみると、年齢差とか、世代感覚とか、上下関係的なものがイメージしやすいかな・・・と思いましたが、いかがでしょう?

しかし昔のお茶人ってホント長生きですよねー。当時からお茶やってた人ってのは、それなりに経済力豊か(お金持ち)で、一般庶民よりかはいい暮らしをしていた、という側面もあるでしょうけど…。抹茶を飲むことで、それが直接的に健康に寄与している、そんな気もします。

というわけで、「尾張の茶の湯」の勉強は一旦、これで区切らせてもらいます。折を見て、まとめページ的なものも作ろうかな。

さて次回からの勉強部屋、なにやりましょうかねぇ…。

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