尾張の町方-教授寺の集い

アートフェアもひと段落…。こちらはまだまだ続く、尾張の茶人シリーズ。尾張における表千家流行の発信基地となった「教授寺」とは?

教授寺同好会

千家の茶が広まる前の段階として、茶の同好たちが桜町筋の教授寺に集まり、ここで稽古をしていたそうです。(当初は宗和流の茶がここでは行われていたはず)

勝手ながら「教授寺同好会」なんて呼ばさせていただきます。

そのメンバーは岡田佐左衛門(野水)、川村九兵衛(曲全)、高田三郎左衛門(太郎庵)、小沢市左衛門、神戸分左衛門、吉田与兵衛、鈴木五平次、花井七左衛門、浅岡九兵衛、高橋新六、服部権右衛門、服部分助などなど…。(伊藤次郎左衛門はなぜかここにでてきませんが…)

さらにこの中に武士も混じっていたみたいです。尾張藩が「ウチは有楽流だぞ!」と、ビシッと正したその背景が、こんなところにも見られます。このころの藩士は好き勝手にお茶を勉強しようとしてたんですかね?

まあ稽古といっても、今現在のお茶の稽古とはちょっと違った、「お茶に興味津々の人たちの集まり」といった感じでしょうか?日夜稽古に励み、その間には曲全や野水の家に泊まったなんて話もあります。夜遅くまで何をお話してたんでしょう?なかなか興味深い集まりですね~。

その中の一人、岡田野水が表千家に入門し、「おお、これが千家の茶か~!」と、千家流行の火付け役となるわけです。

岡田野水

岡田佐左衛門(佐次右衛門)、名を幸胤といい、先祖は清洲越のときから名古屋の地に代々住む商家、当時は大和町で呉服商「備前屋」を営んでいた豪商です。名古屋の惣町代(町奉行と市民の間に立って、市政の運用を円滑にする役職)を勤めていたこともある、有力商人の一人です。

この人は元来、風流を好んだ人で、最初は俳句を嗜み、松尾芭蕉が名古屋に逗留したとき(「野ざらし紀行」の旅の途中)に芭蕉を自宅に招いており、「冬の日」の歌仙興行に加わっています。「野水(やすい)」はこの人の俳号でもあります。また先述の通り、中島正貞(正員)の誘いで宗和流の茶を学んでいました。

伊藤道幽と同じく、野水もまた仕事柄、京都と名古屋を度々往復することが多かったようです。すでに道幽が千家流の点前を披露していたことから、千家に関心を示しており

「ワシも千家の宗匠に教えてもらいたい、宗守以外にも誰かいい師はおらんかね?」

と、京都の宿屋・八文字屋庄左衛門に相談します。そこで表千家の原叟宗左を紹介され、その門下となったといいます。

「宗守以外にも」というところ、なーんか引っかかりますよね?

武者小路千家だとなぜ具合が悪いのか…恐らく、道幽と野水の年齢差が関係しています。

年上の野水が、あとから武者小路千家に入門したとなれば、尾張の同郷で年下の道幽が「兄弟子になってしまう…これを嫌ったのではないかと思います。うーん…現代の感覚だと、些細なことのように思いますけどね…。商家の旦那として、体面を気にした、人の風下に立つのを嫌った…そういう事情があったのかもしれません。(たまたま相談したら原叟を紹介された、ってパターンもあるかもしれませんが)

みんなもやろまい、千家の茶

こうして、原叟の門下として岡田野水は表千家で稽古をつけてもらうことになるわけです。「尾州千家茶道之記」では、この人が名古屋で千家の茶を習い始めた二人目の人物、ということになっています。道幽と同様に、野水もまた仕事で京都に行くたび、稽古をつけてもらっていたのでしょう。

そして教授寺メンバーである河村九兵衛(曲全)と高田三郎左衛門(太郎庵)を誘い、この2人も表千家に入門するのです。

…この二人の場合、野水よりも年下惣町代を勤めるような商家の大先輩のお誘い、断る理由はありませんね。(笑)

出張教授:町田秋波

「宗匠、頼むでまぁ~尾張まできてちょぉ~」

名古屋弁で言ったか、言わずか。

表千家に続々と入門する町衆の出現に触発され、「ワシもお茶やりたーい!」と、尾張の町方で茶道隆盛の機運が高まります。しかし機運が熟したものの、京へ赴くことの多い人たち(伊藤道幽、岡田野水、河村曲全、高田太郎庵など)は富裕商家のごく一部に限られ、多くの町衆は「京へ上って稽古をつけてもらう」のは難しい。また名古屋の町衆を相手に、きちんと茶道を教えられる人もいません。(藩士であれば、御茶道がいるんですが)

そんな状況を憂いた野水が、原叟に「千家を習いたい人たちが尾張に増えてきたが、私のように気軽に京へは来れない茶友がいる。誰か千家のお茶を教えてくれる先生を、尾張に派遣してもらえないか」と嘆願します。

それに対して原叟は「それは尤もだ。ただし大藩である尾張に派遣するのであれば、懇ろの器量のものを遣わさないとね。」と、快諾。久田宗全から茶を学び、原叟を支えた不審菴の功労者である大ベテラン・町田秋波が尾張へ出張稽古を行うことになりました。茶の湯の同好が集う教授寺で、亡くなるまでの3年間ほど、出張稽古をしていたそうです。

秋波が派遣されたことにより、尾張で表千家が一気に広がったことが想像されます。

京⇔尾張の往復をしなければ稽古できない状況よりも、先生が地元に来てくれるほうが、はるかに多くの人が稽古を受けやすいですよね~。器量の優れた先生が尾張に来てくれるので、表千家を習う人が一気に増え、武者小路千家は道幽の後も尾張は広がらず、宗和流の系統も続かなかった、というロジック……なるほど、大方筋が通っているように感じます。「尾州千家茶道之記」にも、出張稽古に来てもらえるようになってから、次第に他流は衰微したということが書かれています。

次回は尾張における表千家隆盛のもう一人の立役者・河村曲全を取り上げます。

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