前田壽仙堂

尾張の町方-武者小路千家

まだまだ続く、尾張の茶人シリーズ。千家第一号(?)の茶人は名古屋じゃ有名なこの人!

伊藤次郎左衛門

名古屋の方なら、この名前は非常に有名なので、ご存知の方も多いでしょう。松坂屋の前身、いとう呉服店(当時はまだ呉服問屋・伊藤屋)の4代目です。

先述の通り、中島正貞の勧めで宗和流の茶を習っていましたが、あるとき・・・

「今、千家に三家あって宗左・宗室・宗守と云う。この内にも宗守は当時市井に人気を博してしかも年長で又機転もよろしき立ち、三家の中で一番繁盛している。これを師家に御頼みあってしかるべき」

と勧められ、武者小路千家へ移りました。呉服問屋という仕事柄、京都に赴くことも多かったことは想像に難くなく、京へ上るたびに宗守に稽古をつけてもらい、名古屋に戻ってその点前を披露し、皆が感心したと伝えられます。

宗守ってどの宗守?

著者の大橋遅松はこの伊藤次郎左衛門が「名古屋における千家茶道の茶人第一号」と言っていますね。(岡田野水のほうが、名古屋の茶道界隈にもたらした功績もあってか、現在地元では野水のほうが先、みたいに言われてるようですが…)

他の様々な書籍などにはこの伊藤次郎左衛門は「道幽」と号して、武者小路千家の真伯の門下であった、などという記述が多数見られますが…(「茶人系譜」や「伊藤祐民伝」などでも)。

「尾州千家茶道之記」では「宗守」となっており、何代なのかが不明です。ただ、この「当時市井に人気を博してしかも”年長“で又機転もよろしき立ち」という評判に加え、四代・次郎左衛門(道幽)の生年を勘案すると…恐らくこれは文叔宗守のことを指しているのではないかと疑っております。

文叔は当時から点前の名手との評判が高かったようで、『茶話抄』にもその名が見えます。

文叔宗守は一時の上手にてありけるよし、其書置ける物に、茶をたてる心得をいへり、まつ居所を畳に付て腰をすえ、両の足の甲を畳に付て膝頭を張様に心を付へし、茶をたてるなり、多くは腰すはらす、腰のぬけるを不覚して力味はつむに依て、見立て見苦候、騎馬抔にも其心得有る事也、第一茶をたてるは心の業にてあれは、心ははりて、業は和らかにするかよし、用の手はしつはりとして、無用の手は早くすること其心得也…

これは表千家の如心斎の門人である横井次太夫が記したもので、他流の人からも評判になるほど、高名な人物であったことが伺えます。「尾州千家茶道之記」の評判ともなんなーく、符合する気がしますね。「年長で」という記述から、年代的にも、壮年~晩年の文叔に師事していた可能性が高いような…。

道幽と真伯では、親子ほど年が離れているんで、他書籍は何かの誤解か誤植かと…。恐らく『伊藤祐民伝』の「三代(三世)宗守」という記述が誤解の元なんじゃないかなぁ…。間に一本横棒があるか(三)、ないか(二)の誤植はマジでありえそう。(※僕は学者でもないんで、あくまで個人的見解ですよ)

  • 文叔宗守(武者小路千家2世) 明暦4年(1658)-宝永5年(1708)
  • 伊藤次郎左衛門(道幽)     寛文5年(1665)-享保7年(1722)
  • 真伯宗守(武者小路千家3世) 元禄6年(1693)-延享2年(1745)

でもこうして一覧にすると分かりやすいッスね。仮に1700年で区切って年齢を逆算してみると…文叔42歳、道幽35歳、しんぱく7さい。

うーん…流石に10歳そこそこで茶道を教えるかなぁ…?(しかもアラフォーのおっちゃんに)

ただ文叔の歿後は真伯に師事しているのかもしれませんし、それで他書籍では「真伯門下」としてあるのでしょうか。師弟関係は具体的な一次資料が確認できないので、このあたりはほぼ想像です。

<補足>

「2世」やら「三代」やら、表記がブレブレでワケわかんない感じになるような気がしたので、補足説明。

現在、「家元歴代」として千家では「千利休」を初代とし、少庵を二代、宗旦は三代と数えています。これは表千家・裏千家でも共通なのですが、かつて武者小路千家では、宗旦の息子である「一翁宗守」が一家を立てたことを「武者小路千家の始まり」と考え、一翁を「1世」とし、文叔は2世、真伯は3世、と数えていた時期があるのです。現在では、他の千家にあわせて「千利休」から初代と数えています。つまり文叔は五代、真伯は六代、ですね。

この辺のことを知らずに聞くと、え?あれ?っとなりますよね・・・。(僕もはじめ混乱しました)

武者小路千家も続かず?

伊藤家はこの後、5代・祐寿が継承しますが茶道は嗜まなかったようです。その後の6~10代は相次いで夭折、婿養子が来ても夭折、とかなり大変な時代が続きます。そして後の11代・祐恵が京都隠居中に松尾宗吾と出会い、松尾家(松尾流)の茶を代々続けることになります。

伊藤家に関していえば、家がそもそも大変だったんで「お茶やってる場合じゃない」という側面は大いにあると思うのですが。それにしても、このほかに武者小路千家の茶を学んだ、という茶人の名前が出てきません。あらら…?

このなぞに対して、「名古屋で表千家が流行したから」と一口に言ってしまうのも、なんだかザックリとしすぎですよね。やはり町衆のみなさん、「みんながやってる流派がいい」という感じだったのでしょうか?

町衆がミーハーなだけではない、名古屋で表千家が流行したのにはそれなりのワケがあります。

次回はこの「表千家」を名古屋で広めることに一役買った、岡田野水表千家の出張稽古についてです。

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