尾張の町方-宗和流

「目の眼 7月号(当店も紹介されてます)」の名古屋の美術商特集を読まれた方も、中にはいるかもしれませんねー。こんにちはー。(´・∀・`)

目の眼の取材を受けた内容とは、ちょっと色の違う内容なのですが…偶然にも宇治屋さんのインタビューにやや関連した内容のご紹介をしております。(もしご興味をもたれたら、過去の記事も読んでみてください☆)

目の眼に掲載された、尾張SUBWAY-LINEはこちらでちょこっとご紹介。いずれ個別に勉強部屋でとりあげなくちゃならんですねー。

さて、かつてない活況を呈した尾張名古屋の町方で、いよいよ茶の湯の萌芽が始まります。貴重な資料・「尾州千家茶道之記」を元に、名古屋で活躍した茶人たちをご紹介。

尾州千家茶道之記

この時期に活躍した尾張の茶人たちを知るための資料として、第一に挙げられるのがこの尾州千家茶道之記です。これは河村曲全より茶を学んだ「千竹屋遅松」こと、大橋伝蔵(1696-1779)が記した茶書であります。

これが岡谷家に伝わり、当時の当主である岡谷二圭がこれを書写したものが現在に伝わります。原本の所在は不明ですが、岡谷二圭による書写本は名古屋市中央図書館の所蔵となっています。

さらにこれを現代の書物として読みやすくしたものが、日比野猛氏の著した「名古屋の茶人大成」という本に掲載されております。これは本ッ・・・・・当に、勉強になる本です。

脈々と受け継いできた先達の偉大な方々に、頭が下がります。 <(_ _)>

まずこの巻頭の言葉を引用させていただくと……

其(河村曲全)の常の談に当時の若輩達は、今の千家茶道は往古よりかくありしと思わるべけれども、全く左に非ず。四-五十年前迄は、流儀も分明ならざる茶人が多かりしによりて、茶道もさまざまなりしと云う事を、度々云われし物語を聞き置けるを、遺忘の為に少々書き記しおけるを今ここに記す。

というわけで、この頃(これを書いた安永3年(1774)からさかのぼること4-50年、ということは1700年代前半)まで流儀のお茶をきちんと習う人たちは名古屋にいなかった、ということが述べられています。前回予習した尾張藩の窮乏っぷりからして、茶道をきちんと師事して修練できるほど、尾張周辺は余裕がなかったのでしょうか。(そもそも流儀の茶、という概念自体が成立していなかった、という見方もできるかもしれないですが)

まず名古屋の町方にきちんと体系化された茶の湯の系統として伝わったのは「宗和流」でした。

中島正貞

名古屋の京町に「鉄屋の正三郎」という富裕商家の人がいました。この人は自ら茶の師を求め京に上り、金森宗和の直門だった京・北野の松梅院・俊岳という僧侶に師事。名古屋に戻って、師伝正しき茶道を広めた初めての人物です。

初めて名古屋にちゃんとした「流儀の茶」を導入した人なのに、なぜかその詳細が割りとあやふやな人物です。書によっては「中島宗員」であったり(尾州千家茶道之記に準拠し、ここでは「正貞」と記述していますが、宗員の書物のほうが多いです)、その後の尾張における宗和流の系統も不明、生没年もよくわかっていません。

この人が名古屋の有力商家の人たちを誘い、宗和流の稽古を始めていたそうで、当初その門下には岡田野水、伊藤次郎左衛門、花井七左衛門、川村九兵衛などがいました。しかし、この人たちは後に宗和流から、別の流儀に宗旨替えをしています。

宗和流は根付かなかった?

なんでこの門下の人たちはみんな千家に移っていったのか…ちょっとしたミステリーなのですが、以前ご紹介した「尾張藩の茶道」を踏まえてこれを考えてみると、一つの推測を立てることができそうです。(「尾張の茶道」でも、このような推測が書かれていました)

尾張藩は藩として専門家集団を組織するなかで「有楽流」や「織部系統」の茶匠がおり、何れも武家茶道の一派である点が特徴でした。そんな中、町方で宗和流を教える人が出現します。宗和流も茶風こそ違えども、出自が「武家」の茶道流派であります。

「町人風情がワシらと同じ武家茶道を習うなど、けしからん!」(と、言ったかどうかはわかりませんよ?)

と、プライドの高い尾張藩士たちは、宗和流が藩の町方で流布するのを良しとしなかった…。そこで様々な分断工作が行われたという説です。うーん…なんとも飛躍した話にも思えるのですが…。

ある人は馴染みの道具屋(現在も続く某茶道具の老舗)から

今、京では千家が大流行しとるぞー、立派な宗匠がいるんだ。習ってみん?」

なんて情報を聞き、またある人は千家流の点前を目の当たりにし、

「ほほう、千家の茶が流行っとるそうな。やっぱ商家の人間には千家流だなあ、よしワシもやる。

と、京で稽古をつけてもらうようになり、千家一大ムーブメントが巻き起こり、ゆくゆくは

「名古屋の友達も千家流習いたいけど、みんな京都にいける訳じゃないし、ちょっと宗匠呼んでくるわ」

なんて京に上り、名古屋に主張稽古の宗匠を派遣するにまで至ります。

で、これを尾張藩士が裏で糸を引いていた、と。

暗躍していた人の存在は…まあ、ともかく脇に置いて…町人たちが流行に乗っからずにはいられない、このミーハーな感じ…。あくまで推測の域を出ないお話ですけども、いかにも俗っぽくって、あるあるーとか思っちゃいました。(笑)

続々と出現する尾張の茶人たちは、どんな人たちだったのか。

尾張の茶人シリーズ、またまだ続きますよー。

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