利休前後の尾張

今回から切り口を変えて、茶の湯の文化・歴史の勉強です。

肩の力を抜いて読んでいただければ幸いです

僕は修行時代、茶道具を専門に扱うお店にいたこともあって、やはりお茶に関する様々な話を自分で調べたり、人から聞いたりするのが好きです。(人に話したり、文章考えたり、伝えるのはまだまだ苦手なんすけど・・・)

道具にせよ、茶の湯にせよ、やはり興味を持つ上で、とっつきやすいのは単純な「道具の美しさ」だとは思います。・・・ですが「そうじゃない人でも面白そうな話題は何かなー」と、考えたところで・・・「歴史」に思い当たりました。(東博の特別展「茶の湯」に刺激を受けた部分もありまして・・・)

今回から「郷土にまつわる茶の湯の歴史」の勉強をしてみよう、と。

さて桃山時代、千利休によって大成されたといわれる茶道。織部~遠州~石州と茶の湯の世界は展開されていきましたが、それは日の本の中枢、つまり当時の堺や京、江戸での話であります。その頃、地方都市・尾張はどうであったか?

いろいろと前置き込みで長ーい話になりそうです。まあ・・・茶道だからと肩ひじ張らず、いつものゆるーい感じでいこうと思います。

利休以前の清洲

「尾張の茶道(河原書店)」という本の中に、表千家の宗匠を代々続ける名古屋の茶家・吉田生風庵の五代・吉田尭文の著した「名古屋茶道史」があります。「将来の研究の捨石に・・・」とはしがきがあり、参考文献の一つとして紹介したいと思います。

「名古屋茶道史」によりますと、尾張茶道の源流は相当古いようで、まず「言継卿記」の次の一説に注目してます。

天文二年七月廿日(1533年)・・・今朝朝飯平手中務丞所有之、各罷向了、三人なから太刀遣候了、種々造作驚目候了、数寄之座敷一段也、盞川、八過時分迄酒候了云々

「言継卿記」を書いたのは、戦国時代の公卿・山科言継。有職故実や笙、製薬のみならず、和歌などにも通じたこの時代の文化人。すでに中国から渡ってきている喫茶の文化についても造詣があったと考えられ、このひとが平手中務丞の造作を激賞しているのです。

「平手中務丞」とは平手政秀のこと。織田信長の父・信秀から仕える老臣です。歴史小説、漫画やアニメ・ゲームなどでもすっかりお馴染みの「信長の傅役(もりやく・教育係)」「じいや」としてキャラが立てやすく、印象的な人物なので、この平手政秀をなんとなく知っている人も多いでしょう。

注目すべき点は「数寄之座敷一段也」というところ。平手政秀の造作のなかでも、「数寄の座敷は一段と見事である」との旨を述べているのです。この数寄の座敷というものが「果たして茶室であるかは検証が必要だ」と、吉田尭文は慎重に述べていますが、それほど大きく逸脱したものとも思えません。

天文2年(1533年)というと、まだ信秀(信長の父)が当主のころ。茶道史的にいうと、武野紹鴎(1502-55)の時代。利休は1523年の生まれですから、この当時10歳そこそこの子供です。たとえ「茶室」ではないとしても、数寄・・・つまり風流・趣味の座敷という意味において、利休が大成する以前の茶の湯の要素(書院に名物などを飾って茶を喫していたのかな?)が、すでに尾張(清洲)にあったと考えるのも、面白いですね。

話がそれますが、この饗応の20年後、この「じいや」こと、平手政秀は自刃しています。

自刃の理由は諸説あり、信長と不和だったという話が伝わる一方で、信長は平手政秀の死後、その菩提を弔う為に「政秀寺」を建立しています(本当に不仲だったんですかね?)。この政秀寺はのちの「清須越し」で、名古屋にお引越し。現在、我が家のご近所さんでもあります・・・。

閑話休題。

抹茶を喫する文化は、鎌倉時代に栄西が臨済禅と共に中国から日本に持ち帰って以来、寺院などで行われていたことです。

利休登場以前から、あちこちで、僧俗問わず、様々な形式で、お茶を飲み、道具を飾って、楽しんでいたことが想像されます。(その中でお茶の銘柄を当てる「闘茶」が流行したとも言われています)信長の影響を受けて、そのお膝元・清洲でも、ひょっとすると喫茶の文化が広がっていたのかも(?)しれません。

それを「侘び茶」・「茶の湯」として大成させたのが利休なのです。(利休自身に関してはそこまで尾張に関係ないんで、割愛します)

大いなる田舎?!

では尾張でもそれに順ずる形で、利休以降の「茶の湯文化」が広まっていたか・・・

というと、そういうわけでもなさそうなんですね~。残念ながら・・・。

利休没後の大変高名な茶人に、小堀遠州という人がいます。この人が名古屋に滞在中、茶友の長闇堂(久保権大夫)に宛てた消息(手紙)が残っており、これも「名古屋茶道史」の中でとりあげられておりましたので、ちょっとご紹介します。

何国にも心とまらば住かへよ ながらへばまたもとの古郷と申し候へても 心のとまらぬはいなかにて候 古郷ゆかしくて はなし可申もの無之 きのどくにて候 めくらのよりあひにて せめてつへをもちたるめくらならばと存候云々

名古屋より 小堀江

権大夫殿床下

ざーっくり、現代語に意訳すると・・・

「『住めば都』なんていうけどさー、なんともつまらない田舎だわ・・・。話の分かる人もいないし、とんちんかんな連中ばっかり、早く帰りたいわぁ・・・」

と・・・遠州さん、愚痴っております。(苦笑)

口調がオカマっぽい・・・と感じたアナタ、某漫画の読みすぎです(笑)ありゃーギャグですから。史実と関係ありませんわ!(ところであの漫画、ご宗家から苦情きたりしないのかしら?)

「めくらのよりあひ」とは、実際に眼が見えない人たちのことではなく・・・比喩表現としての「目暗」、つまり「ものの良さを理解できない人・見る目のない人」の意味でしょうね。さらに「せめて杖を持ちたる目暗ならば」と続き、よほど下手なモノ(質の悪いもの)をありがたがったりしていたのでしょうか・・・遠州さんの深いため息が聞こえてきそうですねー。

こんな文をよこす状況とは、恐らく藩内のことであろうと考えられ、当時の名古屋の様子をして「心のとまらぬはいなかにて候」なんて、嘆かれておるわけです・・・。これは想像ですが、町方にも遠州さんを喜ばすような人物はおらず、特に話題となる面白い出来事こともなく、この文の内容からして、京や江戸に比べて名古屋はまだまだ劣っていたように感じられます。(名古屋自体が生まれたての未成熟な町、という側面も見過ごせませんけどねー)

よく名古屋を侮蔑する(時に卑下する)言葉として「大いなる田舎」というのがありますよね・・・その源流を発見したような気がして、思わず笑ってしまいました。

名古屋の町方で活発な茶の湯の展開が見られるようになるのは、江戸中期以降になります。

ってことは、茶の湯不毛のド田舎・尾張だったのか?そういうわけでもありません。

町方に茶の湯を楽しむ余裕がなかっただけで、尾張藩は当初から茶道をしっかりやっております。次回は尾張藩について、掘り下げてみます。

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