御深井焼02-ルーツを探れ

店舗移転、サイトリニューアルで頓挫していた勉強部屋「御深井焼」シリーズを再開するにあたって、過去の記事を加筆修正しております。

編集履歴

  • 2018/6/16 掲載
  • 2018/10/13 修正
  • 2021/2/3 レイアウト変更に伴う編集

前回のおさらい

オフケヤキって何だ?

御深井焼とは…「名古屋城の御庭焼」であり「御深井釉の焼き物」であり、「深井製の印が捺された焼き物」である。いろんな要素が混然一体として語られている現状で、非常にわかりにくい

「御深井焼とは何なのか?」との問いに答えるには、「御深井焼の歴史を紐解く必要がある」…。

…ということで、今回は御深井焼のルーツを探っていきます。

名称のルーツ

名古屋城は「名古屋台地」という名古屋市の中心部にある台地の西北端に立てられました。(昔、ブラタモリで特集してましたね)

名古屋城の石垣・御濠は「台地の縁(へり)」を利用して作られているんですね。ここは台地にしみ込んだ雨水などが流れ出す沼沢地帯。古来、このような場所は「深け(ふけ)」と呼ばれていました。この名古屋城北側のお濠「御深井大濠」、そのお濠に対してせり出した城郭の「御深井丸」、そして濠を挟んで北側にあった「下御深井御庭(外御深井)」、これらはこの「深け」が由来となっているのです。

御深井焼もこれに関するに違いない。

窯があった場所が名前の由来

サクッとネットで調べると「御深井丸に窯があったので・・・」という記述が散見されます。恐らく古い辞書・参考図書にも同様の記述があり、そこから引用しているのだと推察しますが……この説明は今となっては正確性に欠けるでしょう。

自分が調べ切れていないだけかもしれませんが、御深井焼についてしっかり体系化された参考図書って、少ないです(古い時代のものが「今でも現役」的な)

現代の発掘調査や文献研究を総合すると、「下御深井御庭に窯があったので、御深井焼という名前がついた」と考えられています。

「御深井丸に窯があった」←城郭内部に高い火力を必要とする本格的な窯場を作るのは、普通に考えたらキケンですよね。

お濠の外にあった、と考えるほうが自然です。(万が一、火災が発生しても、お濠の向こう側。城内にまではキケンは及ばない)

また下御深井御庭は、名古屋城の外にあるとはいえ、時の将軍を接待するのにも使われる場所(後述)。御庭とはいえ、誰でも気軽に立ち入れる場所ではありません。

ゆえに一般庶民の目線・感覚からすれば「立ち入れない下御深井御庭もお城の一部・お城の内部」という認識だったはずです。「城内」というのは、御庭も含めた表現だった、と。

そこから「御深井のお庭で焼かれている焼き物」と「お城で焼かれている焼き物」という言葉が長い年月を経て混同され、「御深井焼は城内(御深井丸)で焼かれていた」という誤解・齟齬が生じているのではないかと、考えられます。

「御深井焼」と名前の似通った、「御深井丸」という城郭があったことも、混同をより引き起こす一因となっているのでしょう。

いつから作られていたのか

「深け」と呼ばれた低湿地ゆえ、名古屋城築城の際に土を掘った場所には水がたまり、お城の北側に「御蓮池」と呼ばれる池ができました。その池の中にいくつか小島を作り、元の自然の景観を生かしつつ、茶屋などを設えた回遊式庭園として整備され、これが「下御深井御庭」となります。

三代将軍・家光が上洛の際、尾張に立ち寄り(このために本丸御殿の増築をしてます)、この御庭でも接待をしていることから、初代藩主・義直の時代(寛永年中・1624~1644)には、この下御深井御庭は完成していたはずです。

また延宝年間(1673~)には、二代藩主・光友が瀬戸焼の原料である「祖母懐の土」を藩の御用だけの使用に制限し、この土が名古屋城へ運び込まれ「御留土(御止土)」とされた記録が残っています。

上記の2つの記録から、御深井焼の創始時期の推定は「初代・義直時代」「二代・光友時代」が提唱されています。

現在ではこの記録に加えて…

下御深井御庭にあった御蓮池の東側に「瀬戸山」と呼ばれる小高い山があり、そこに窯を築いていた。

義直の時代に優れた陶工を美濃から呼び寄せ、瀬戸に「御窯屋」を整備。瀬戸での窯業殖産を命じるとともに「藩の御用」にも従事させていた。

このようなことが分かっています。

こうした窯の場所、それに従事する人物や、時代の背景などから、「初代・義直時代の創始」という説が有力視されています。

どうして焼き物をつくっていたのか

現在、義直~光友の時代に作られたと分かっている「初期の御深井焼」と確実に断定できるものはごくわずかです。

代表的なものは「光友」という銘が入った御深井釉の大花瓶

知多市文化財・御深井焼大花瓶

愛知県知多市の法海寺所有で、二代藩主・光友が横須賀御殿に出向いた時にこの地方に3個寄進した内の1つ、という謂れがあります。

この存在が重要なカギになっています。

御深井焼は「寄進、進物としての陶器」の需要を満たすため、藩主導による焼き物の生産を行ったもの、と考えられています。現在に伝わる御深井焼の古い手のモノは、寺院にあるものが多数。御深井の焼き物は、寺院だけでなく、他藩の大名、宮中の公家などへの贈物としても使われていたと考えられます。

尾張藩は当時まだ「生まれて間もない新しい藩」です(かつては清洲が尾張の中心地)。信長→信孝→信雄→福島正則→と戦国時代から江戸幕府が出来るまで、短期間の間にコロコロと統治者が変わっていた地域。幕府ができ、新たな尾張の統治者として「徳川」の名を知らしめるため、また藩として様々な「お付き合い」を円滑に進めるため、藩として公式に作った陶器を「贈り物」としてあちこちに渡していた、と考えられるのです。

こうした尾張藩による陶器の生産は断続的に行われていたと考えられており、衰微していたのを十代藩主・斉朝のころに再興されたと言われています。

あえて触れていない話題

尾張国焼マニアの方なら「陳元贇」という人物に敏感に反応するでしょう。あちこちで御深井焼とセットで語られる人物なので、今回の勉強部屋でも登場しないのを「なんで?」と疑問に思われているかもしれません。

個人的にまだまだ潜りきっていないので、正直ここでビシッと言い切れないのが現状です。どういうわけか、尾張のあちこちに「陳元贇作」といわれながらも、そうではない、御深井焼がいくつもあり・・・ここは慎重にならざるを得ない、といいますか・・・うかつな事を話して、勘違いされるとマズイ、といいますか。(「奥が深すぎ、御深井焼問題」の一つでもあります)

この陳元贇という人物については、御深井焼という括りでは語らず、もう少し切り分けて考えたほうがいいのかな・・・と。

ただでさえ絡み合って分かりづらい御深井焼を、さらに分かりづらくしているような気がするので、あえて触れていません。

(いずれ深遠にダイブしましょう、いつになるか分かりませんが・・・)

まだ序の口

整理すると…

  • 御深井焼の窯があった場所は「名古屋城・下御深井御庭の瀬戸山
  • 初代・義直の時代に、美濃の陶工を呼び寄せ、藩の御用に従事させていた
  • 二代・光友のころには「祖母懐土」を藩で独占し、特別に藩の焼物に限定して使われることになった
  • 寺院や大名、公家など、様々な有力者に贈るための品として焼き物を作っていた

ざっとこんな背景があり、御深井焼が作られはじめました。

大体、御深井焼の始まりの前半戦をお話しましたが、まだこれでは終わりません。

実はこの時代から既に絡み合っている部分があるので、それは回を分けてやろう、と。

ゆっくり、じっくり解きほぐしていきましょう。

焦って無理に絡んだ紐を解こうとすると、かえって結び目が締まって、余計に解けなくなります。(;´Д`)

今回は「名古屋城の御庭焼」という立場で、ルーツを探っていきましたが・・・次回はこの「名古屋城」という目線を、いったん外してもらいます。

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