前田壽仙堂

名工・春岱-その1

前回の勉強部屋、業者の某先輩に「が足りないね~」と一発で看破され、ちょいと凹み気味のマエケンです・・・も、もっと、もうちょっと、ガンバリマス。(´・ω・`)

九朗に続き、今回は「春岱」を取り上げてみようと思います。

一応、この勉強部屋は「尾張の焼き物ってなあに?」という、よく知らない人に興味を持っていただくための紹介コンテンツ、という立ち位置を目指しております・・・。地元のどこかでひそかに怪しげな集会を行っているという、噂の尾張国焼マニアの方々にお叱りを受けぬよう、慎重に文献・作品を調べ、文字通り僕自身が勉強しながら、(文体は軽いですが)なるべく丁寧に記事を書いておりまして、遅筆に拙筆・・・平にご容赦ください。<(_ _)>

赤津の御窯屋・仁兵衛家

加藤春岱(かとう しゅんたい)は幕末、瀬戸赤津村の陶工です。瀬戸の窯屋に生まれ、名を宗四郎と言います。早くから才能を開花させ、15歳にして父・景典(春山)の跡をつぎ、御窯屋に列しています。

御窯屋(おかまや)とは、初代尾張藩主・徳川義直が行った瀬戸の復興政策の一種。桃山期に陶工が美濃へと移った影響で、衰微していた瀬戸の窯業を再び盛んなものにするべく、陶工(唐三郎・仁兵衛)を呼び出しました(後に、太兵衛家もここに加わります)。苗字帯刀を許可、藩から扶持を支給し、瀬戸における陶磁器の生産と、また名古屋城内でのお庭焼(御深井焼)の指導を命じたことに始まる、窯元の家です。

尾張藩の御庭焼にも従事

尾張藩の御用窯として奉仕(赤津で作った陶器を藩に献上)し、藩老竹腰氏を始め名古屋の茶人に愛され、その非凡な陶技は一躍当時の陶芸界を風靡し、名工の名が高かったようです。30歳前後に11代尾張藩主・徳川斉温から「春岱」の号を拝領しています。

また、御深井焼に従事していたことも、伝世する作品や発掘調査などからも明らかになっております。こうして、尾張藩に仕えるうちに、藩士である平沢九朗市江鳳造とも交流。春岱が九朗の家に呼ばれ、毎晩のように深酒をしても決して九朗はそれを咎めず、ともに作陶を楽しんだという話も伝えられています。

しかし後にを得て、加藤仁兵衛の名跡を譲り、御窯屋を辞しています。この罪とは何だったのか、詳細には伝えれられていません。春岱はかねてより酒好き・博打好き・女好きの道楽者だったらしく、これが何かしらの問題につながったのではないかと考えられます。

御窯屋・加藤仁兵衛の名跡は春岱の子が引き継いだが夭折してしまい、最終的に甥である梅太郎が継ぎ、「今春岱」と号しました。

放浪時代

しかし人気者の春岱。御窯屋を追われても、引く手は数多。あちこちから作陶を請われ、各地を放浪しながら作品を制作していたみたいです。中でもはっきりとわかっているのは、1851年に今尾領主9代目の竹腰篷月に請われ、今尾の地に窯を築き、焼き物を制作しています。(岐阜県海津市にその窯跡が残る)

今尾春岱」の角印が捺されたものは、この頃に制作された作品です。3年ほど今尾の地に滞在し、茶碗・酒器・水指などを制作。伝世しているものは少ないです。

御窯屋に復帰

1866年(慶応2年)、罪を赦され、それに伴って今春岱(梅太郎)が身を引き、春岱は御窯屋に復帰します。

再び赤津の地に落ち着き、また御深井焼にも復帰し、意欲的な制作を行いました。

春岱の彫銘や箱書には「入唐四郎廿四代」と「入唐四郎廿七代(※写真の箱書)」という二種類の署名が存在します。「入唐四郎」とは、瀬戸の陶祖・加藤景正のことを指し、つまり「オイラはレジェンド景正から数えて24代目(27代目)だ」という意味の署名ですね。なぜ代が24と27の2つが存在するのかは、諸説あります。

個人的には「廿四代」が御窯屋を追われる前、そして復帰後が「廿七代」だとスッキリ腑に落ちる感じがします。御窯屋を追われた後を、夭折した春岱の子(25代)、甥の梅太郎(今春岱:26代)と数えると、ちょうど復帰後が27代にあたり、整合性がとれていると考えるからです。

明治維新を迎え、藩の庇護・禄を失った後、春岱はあちこちを放浪していたようです。寄寓先で病(中風:脳の血行障害のことで、半身不随、片まひ、言語障害、手足のしびれやマヒなどを指す)にかかり、最期は窮死するという、ちょっと可哀そうな晩年でした。

異例な経歴のワケ

一度瀬戸の御窯屋を追われ、各地を放浪の末、結局は御窯屋に復帰する。この経緯はかなり異例です。どうしてでしょう?

まず江戸後期の時代背景として、それまで海外からの輸入に頼っていた磁器が、国内でも大量生産が可能になり大流行。陶器が売れなくなった瀬戸は窮地に陥ります。(後に加藤民吉らの活躍によって染付の生産ができるようになり、瀬戸は復活を遂げるのですが・・・)

そんな時でも陶器の制作で身を立てていたのが春岱です。鉄釉、志野、黄瀬戸、織部、御深井釉、さらには唐津、萩、丹波、三島、刷毛目など(さらには赤絵、青磁、染付さえも作ったと伝わる)、あらゆる釉薬・焼成法を自在に使いこなしていました。特に鉄釉の作品が絶妙で、当時から評価が高かったといわれ、また桃山時代流行した、志野・黄瀬戸・織部の焼成技術の高さには目を引くものがあります。

そして轆轤の技術・器の形成にも春岱独特の柔らかさがあり、特に高台の巧みな造形は春岱ならでは。茶碗の口縁がほんのちょっぴり反りかえっているのも、少し内に抱え込んでいるのも、用と美の絶妙なバランスが考慮されています。

何れも茶碗ですが、あえてポイントごとに異なる作品の例を挙げてみました。

この抜きんでた技術の高さ、知識の豊富さを買われ、罪を赦され、御窯屋に復帰できたのでしょう。

「春岱の他に代わりがおらんがや、やっぱ呼び戻せ」

と、尾張藩の重臣が言ったかどうか、わかりませんが・・・。相当に当時から評価されていた人物であることは、この異例な経緯でも明らかですね。

名工ゆえの・・・

長ーくなりましたが、今回の勉強部屋はとりあえずここまで。春岱って、尾張の焼き物中でも比較的文献も多いのですが、結構あやふやな部分も多く、書いていいのか迷う部分はごっそり間引いております・・・いろいろツッコミ受けるのは覚悟の上です。

次回も引き続き、春岱について書こうと思います。春岱を語る上で欠かせない、もう一つの春岱の側面。名工ゆえの贋作の多さについて・・・。

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