前田壽仙堂

名美アートフェア2018【ブース詳細】

名美アートフェア2018、前田壽仙堂ブースの詳細です。

名美アートフェアの会期についてはこちら。

アド○チック天国 尾張國・前津小林村

百貨店・ブランドショップが軒を連ねる名古屋の中心街・栄。その南には下町の風情を残す「大須商店街」、また近年では電気街・アニメグッツ店・メイド喫茶などが集中し、「中部地方の秋葉原」のような活気を集める大須・上前津地区があります。

この辺一帯はかつて「前津小林村」と呼ばれた村でした。

政治・経済の中心地は「名古屋城下町」。そのちょっと南の外れに位置する前津小林村は、江戸時代~明治・大正にかけて、風光明媚な観光スポット、文人雅客たちの集う閑静な場所として愛された地域。実は文化・芸術の街としての側面があったのです。

今回は地下鉄鶴舞線・大須観音~上前津~鶴舞の周辺にスポットを当て、ゆかりの書画・道具とともに、前津小林村をご紹介します。

と、いうわけで今回の名美アートフェアの切り口は「街」

当初は「ブラ○モリ風」でプロモーションを考えてましたが、地形要素の取材が間に合いそうも無いので、「ア○街風」でいってみようかと。(地形のことに関しては、NHKさんが前津に来てくれることを期待しましょう・・・)

前津小林村 Best10

なんか思いついたその場のノリと勢いで、こんなモノを作っちゃいました。(なんにも許可取ってないので、叱られたら消します…)

まだアートフェアの会期は先ですが…

WEBでこのランキングを一気に紹介しちゃいます!(`・ω・´)

第10位 「酔雪楼」

文政7年(1824)ごろに出来た貸座敷。眺めのよい富士見原の一角にあり、「富士の雪に酔うことができる」という意味から「酔雪楼」と名づけられました。ここでは俳人たちが集まって句会が行われたり、画家や書家の作品を展観する書画会が行われたり、また明治には茶会が行われたりしていました。文化・芸術の街として、人々が集うスポットがあちこちにあったのです。

こちらの広大な庭には樹木が生い茂り、この一角に「かはらけ釜」があったことが『尾張名所絵図会』にも記載があります。ここで「酔雪焼」と呼ばれる陶器が作られていました。

第9位 「寺町」

前津小林村にはいくつもの寺院仏閣が集まっています。現在でも著名なのは「万松寺」。織田信長の父ちゃん、信秀の創建で知られる古ーいお寺。名古屋城の建設に伴い、この小林村へ移ってきたのがこの地における万松寺の始まりです。

この他にも清浄寺、長松院、長栄寺、福寿院、春日神社、七寺などなど、多くの寺社領があり、名古屋城から向かって「南の守備の要衝」の機能を持たせた寺町が江戸初期に形成されていたのです。

第8位 「一樂会」

一樂会とは、大正期に愛知県商品陳列館(裏門前町通り沿い、現在の大須2丁目付近)で行われた、地元の古陶・古美術の展観会。この一樂会の代表者・鈴木寅松は近所の小林町に住んでいたことが分かっています。地元の焼き物マニアをいざなう入り口も文化・芸術の街・前津にあったんですね。

第7位 「不二見焼」

村瀬美香(1829-1896)は幕末~明治の尾張藩士。詩歌、書画、篆刻、茶の湯など風流を愛し、中でも義父・市江鳳造から手ほどきを受けた陶芸はもっとも得意としていました。

明治維新で武士の世が終わり、陶芸の振興を図るべく、「不二山人」を名乗り、前津の地で陶器製作を本格的に始めます。経営に四苦八苦しながらも、何とか軌道に乗せ、不二見焼は二代・亮吉、三代・熊彦と受け継がれ、やがて産業タイルの量産に成功して「不二見タイル」へと大きく成長していきました。

第6位 「前津が育んだ絵師・画家」

前津小林村には、尾張を代表する画家も住んでいました。

山田宮常(1747-1793)は京で中国画の模写などを行って修行し、その精巧な模本を尾張に持ち帰り、張月樵、山本梅逸、中林竹洞などに多大な影響を与え、「尾張南画の中興」と呼ばれる存在です。

その弟子筋に当たる張月樵(1772-1832)もまた、晩年は前津の旧・横井也有の住まいの一角に住し、尾張徳川家の御用絵師として活躍。谷文晁から「おめぇスゲエじゃん、江戸に来いよ」と誘いを受けるも、これに応じず、最期まで前津で過ごした「前津ファン」の代表格でもあります。この他にも小島老鉄(1792-1852)、小田切春江(1810-1888)などの画家たちも、この前津小林村の出身、ここに住んで画業を営んだ人物たちです。

第5位 「香久連里・豊楽焼」

かつて前津の地には「大池(麴ヶ池)」と呼ばれる溜池がありました。この畔に窯を築いて、焼き物を作っていたのが加藤利慶です。過去に勉強部屋でも紹介しているので、詳しくはそちらを参照。

第4位 「中京を代表する庭園の双璧」

江戸期から雅人たちが挙って庵を結び、隠棲をした前津小林村。明治期になってもその系譜は受け継がれ、材惣・鈴木家の「龍門」、早川周造の「碧墅」は中京を代表する庭園として、「名園五十種」で紹介されています。

龍門はかつて久村暁台が住んだ場所でもあり、それから幾人かの人を経て、幕末ごろには鈴木才造の手に渡っていました。広大な敷地を誇った龍門の一角には窯を築き、陶工を招いてそこで「龍門焼」という軟質陶器(楽焼の一種)を焼かせていました。

第3位 「久村暁台・暮雨巷」

久村暁台(1732-1792)は江戸中期の俳人。もともとは尾張藩に仕える武士でしたが、若いころから俳諧を好み、28歳で藩の職を辞し、武士の身分を捨てて俳人として各地を旅します。

明和年間(1764-72)には、前津の地で使われなくなって荒廃していた尾張藩家臣・野崎某の旧別邸を改装し、そこに居を構えて「暮雨巷暁台」を名乗っています。蕉風復興をめざし、安永元年(1772)に出版した『秋の日』は蕉風復古運動の嚆矢として評価を得ます。多数の門下を抱え、暮雨巷一門を形成。後述の横井也有、井上士朗など俳人を多数輩出した尾張は、寛政期は各地を行脚する俳人たちが必ず立ち寄る「俳の都」でもありました。

第2位 「富士見原」

人々を惹きつける、前津小林村の一大観光スポット。現在ではマンション・オフィスビルの林立によって、その景観は失われてしまいました。

しかしこの一帯の道をブラブラ歩くと、名古屋高速・東別院出口ランプがある周辺は南に向かって下っており、また新堀川から東(鶴舞方面)に向かって緩やかな坂道が続いており、往時の地形を今でもうかがい知ることができます。(東別院出口を降りた先は「富士見町」といい、地名にもかつての痕跡が残っています)

富士見原に立つと、眼下に広がる水田の風景、そしてその先には遠く猿投山や木曽駒ケ岳までが望むことができたといいます。江戸後期には茶屋が進出し、人々が行楽に訪れる景勝地として大いに賑わいました。明治の終わりごろまでは、春は菜種、秋は稲穂で東側の一面が金色に光っていた、とも。

文化年間(1804-1818)には葛飾北斎も尾張の地を訪れ(西本願寺別院で達磨半身像を制作している記録から、この前津小林村にも来ていたと分かる)、その後、著名な「富嶽三十六景」の一つに尾州不二見原を描いています。(Wikipediaにもあるように、名古屋から実際に富士山は見えていなかったことが、のちの研究で明らかになっています)

第1位 「横井也有・知雨亭」

横井也有(1702-1783)は江戸中期の武士であり、俳人。代々尾張藩の家臣として仕えた横井家の出自。同じ尾張藩士で絵師として知られた内藤東甫とは俳画で度々合作しています。武芸に優れ、儒学を深く修めるとともに、若い頃から俳人としても知られていました。

53歳まで藩士として重職を歴任し、致仕後は前津小林村に草庵を結び、知雨亭と号してここで暮らしました。俳風は謡曲、書画、詩歌、狂歌など多芸多能な教養人らしく軽妙洒脱。俳句よりも「俳文(俳諧趣味を帯びた文章)」が特に評価されており、俳文の大成者としての方が名高いかもしれません。

かつて知雨亭があったとされる、現在の名古屋市中区上前津1(大津通西側舗道「下前津」の交差点付近)に石碑が建っています。隠居後は殆ど前津の地を離れず、多くの作品をこの地で作っています。「前津旧事誌」の中では、也有は張月樵と並ぶ「前津ファンの双璧」と称されています。

現在も残る「横井也有翁隠棲之址」の石碑。この石碑は先述の「前津旧事誌」の著者である、山田秋衛による建立です。

予習必須?

わりと強引に「BEST10」を考えてみました。行き当たりばったりで作ったので、「10個も考えなきゃならんのか・・・」と困りましたが、なんとか、なんとか…。

ランキングの順位は時代の順番もバラバラで、特に深い意味はなく…。

あくまで「ア○街風」ということです。

ただ選ばれたランキング項目は今回のアートフェアの展示にある程度、即したものとなっています。

今回は趣向を変えて、あらかじめこのランキングで前津のことを知ってもらって、アートフェアの会場にお越しいただければ、より深く楽しめるかと思います。

どんな道具が出るかは…来てからのお楽しみ!

ということで、一つよろしくお願いいたします。(´・∀・`)

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